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2003/11/26

KKKっても国際興業のバスのことじゃないゾ

 神北が、最初に就職で関東に出た1984年当時。KKKというマークの付いた恐ろしいバスが、関東平野を席巻していた。といっても、クー・クッス・クランのことではない。国際興業株式会社のバスのこと。国際化が旗印の時代に国際都市東京を走る国際興業のバスが、いくら会社のイニシャルとはいえ『KKK』と書いてあるのはどうかと思ったが、意外に、斜体にレタリングした文字だけのマーキングは昭和40〜50年代のデザインセンスとしては洗練されておりカッコ良かった。以来、最近になってデザインが変わるまで、ずっと使い続けられていたらしい。
 車体を確認することも無く、米軍関係者らしいアフリカ系の肌の黒い人たちが四〜五人かたまって、にこやかにKKKのバスに乗ってゆくと云う光景を見ると「あ、ああ〜、ドコつれてかれるデスか? ドコ?」とか思ったものだが、そんな光景も昔の話になったらしい。
 さて、この関東興業バスではなく、クー・クッス・クランの話だ。
 入団式で、エアガンで撃たれるという儀式があって、その儀式に音のリアリティを加えようと上空に向かって打った銃弾が、落ちて来て儀式の参加者が死んだと云うニュースが、今日あった。
 秘密結社の入団式としては、仮想的に殺されて一般市民としての生を終えて団員として新たに生まれ直すと云う形式は結構ポピュラーに聞くもので、マフィアの入団式がそうだとか、フリーメイソンがそうだとか、魔術団ゴールデンドーンがそうだったとか、いろいろな話を聞くが、KKKがそうだったとは知らなかった。また、どうでもいいマメ知識が一つ手に入ったというか、なんというか・・・。
 しかし、上に打ち出した弾はいずれ落ちて来ると云うネタは、昔懐かしいアニメ『のらくろ』(大山のぶ代が声をあてた方ね)のネタにもあったぞ。クー・クッス・クランの白人至上主義の方は、東洋の黄色いサルのアニメなんぞ見ないんだろうけど。アレを見ておけば、こんな猿山将軍みたいな目には遭わずに済んだのになぁ……。
 は! それとも主人公がのら犬黒吉だから見ないのか?

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2003/11/23

地図屋の神髄を見た日、ハロが来たぞ

 2003年11月22日。いい夫婦の日。女房と二人で上野へ出かけた。上野の国立博物館で開催されている、『江戸開府400年記念特別展 伊能忠敬と日本図』という特別展示を見に行ったのだ。恩賜公園のあたりは天気のいい日に歩くと楽しいが、その中でも、怪人二十面相を捕らえた明智小五郎と小林少年を前に少年探偵団の子供たちが玄関前で万歳を叫んだというクライマックス・シーンで知られる博物館は、個人的に上野公園三大名所の一つだ。
 さて、そこで開催される『伊能忠敬と日本図』だが、アメリカで新たに発見された物を含め、所在の解っている伊能図を、可能な限り集めようとした展示だ。
 そもそも伊能図と呼ばれる物は、基本的に三種類ある。大図・中図・小図だ。 伊能図の縮尺はは大図(1/3万6000)、中図(1/21万6000)、小図(1/43万2000)で、大図は214枚、中図は8枚、小図は3枚で、それぞれ日本全土の海岸線と主な内陸街道筋・島嶼部を覆っている。もちろん、これは、計測時に記入して行った原図ではなく、出版物というか、人に見せる物として整理をし丁寧に清書されたものだ。小図の1/43万2000と云っても、日本列島2千数百キロを納めようとすると、2500キロと概算して約5.8メートル。中図で11.6メートル。大図でなんと69.4メートルとなる。そのため、日本全土を表す物としては小図が、関東とか、九州とかの、地方図として表すものとしては中図が主に用いられ、大図は郡や村の名を詳細に記した局所図となる。
 今回、最大の見物は、関東・中部圏を中心に、広い床面に小図を並べて作った巨大な日本地図だ。1キロが約2.8センチという巨大さは、経験してみないと解らないかも知れない。直径で40キロ以上ある湾や湖沼は、地図上で1メートルを超える訳で、人一人が座り込んで周りの地名を詳しく見てゆける広さだ。その巨大なところに、信じられないような細字で村落名が綿密に記載されている。自分の出身地で確認してみると、字の単位で地名が書き込まれており、作成者のこの地図にかける執念を感じる。日本列島というこの広大な物を、山河も人の暮らしもすべてを綿密に紙上に留め、明らかにしようと云う、地図製作者の高邁な意思が天辺にあり、静かで平坦だが17年と云う非常に長期にわたって続けられたあくまでも執拗な作業への傾倒が底辺をしっかりと固めていることが、紙面からにじみ出て来る。
 頂点に頂上が来るように日本画の技法で山を描く手法は、等高線と云う手法や、高低差を計測する機器のない時代に、それでもそこに山があることを表そうとした、地図屋の執念だ。その頂点の位置を計測する為の多くの地点からの方位線が山頂に重なっている様は、視認的・主観的な絵地図ではなく、科学的・客観的な地形図を描くための手段を、持ち得る知識と知力の限界まで模索した帰結でもある。伊能忠敬は、日本中を計測して歩いた人として名が轟いている。たしかに、その基礎データの収集を行う苦労は、筆舌尽くし難いことの連続だと判っている。しかし、地図描きの神北としては、そのデータを、自分の持つあらゆる手段の中で最も有効な手法を見つけ出し、あるいは編み出して、出来る限り情報量を持たせた、それでいて直感性も維持した地図を描いたという、「描く」部分にこそ、伊能忠敬の神髄がある気がしている。
 伊能大先輩、アンタも、俺と同じ点で苦労してんなぁ。地図屋の戦いは、情報量と紙幅との戦い。いつの日も変わんないぜ。
 もう、そんなに後がないが、この特別展の会期は2003年10月31日(金)〜12月14日(日)だそうだから、機会があれば是非、上野の山に行ってみてほしい。

 さて、伊能図を堪能した後、上野公園を抜け、上野の街に出た。上野公園では相変わらず、キリスト教系らしい団体がホームレスっぽいおじさんたちを大量に集めて説教をしている。説教の後に食事の施しでもあるのだろうか、神妙という風でもないが、静かに座ってみんな聞いている。せっかくここまで来たからと公園内の上野精養軒のお品書き見たが、ひとり二千円〜五千円と書いてある。夫婦して、アイコンタクトでスルー。昼飯にちょっとねーという訳だ。結局は、上野のガード下にあるあまり知らないファーストフードの店でネギトロ丼を食す。5〜600円で大満足。こういう生ものの店は、大量消費が見込めるところでないと広まらないかな。でも、チェーン展開で近所に来てくれると嬉しいぞ。
 上野から、御徒町、秋葉原と歩く。だからといって、上野で米軍放出品を見たり御徒町で宝飾品を見たりはしない。そのあたりはたんなる散歩の経路。目的は秋葉原。女房が欲しがっているMP3プレイヤーを見に行く。LAOXザ・コンピュータ館で、ずらぁと並んだプレイヤーを見る。小さな物は、本当に小さい。イヤホンジャックが抜けたらカバンの中で行方不明でなりそうなほど小さい。ただ、まだ機能と値段のバランスで、使い物になるのは二万円前後から上ということが判った。ちょっと予算オーバー。どうしたものか。
 代案として、MP3プレイヤーの付いた携帯はどうかということで、J-Phoneショップ(って、今はボーダフォンショップなんだけどさ)へ。今の携帯は、夫婦揃ってここで買い、おなじくここで電池を二度替えているから、たぶん二年半か三年使っている計算になる。電話としては何の不足もないが、そろそろ新機種に買い替えても罰が当たらないぐらいは使っている。この携帯をMP3機能のついたJ-SH53という機種に安価に変更できないかと考えたのだ。しかし、残念ながら、既にJ-SH53は販売を終了していた。後継機は12月に出るらしいが、200万画素のカメラ機能が付くので、初期の買い換え価格は1万円台後半ぐらいはするらしい。MP3機能とカメラ機能は、使う層が異なるだろうから、旧来の100万画素のカメラでいいのでもっと安価にしてくれると嬉しいんだがなぁ。
 かくして秋葉原でMP3プレイヤーと携帯電話を見て、プリンタ用紙を見て、その他いろいろと遊んだあげく、最終的には駒八へ。我々の中で駒八といえば、第39回日本SF大会Zero-CONの実行委員会の会議の後で、スタッフの陰山くんが「くんくん、おいしいお酒の匂いがする。ここの店はきっと旨い!」と発見した、JR秋葉原駅の昭和通り口から5分ぐらいのところにある居酒屋、駒八秋葉原店である。以降、土曜日のスタッフ会の後と云うと必ずここで、2000年8月の大会終了後も、毎月一回、駒八会と称する宴会が続いている。この日は、近くの公共施設で2006年の大会の準備会が開かれたので、誰かここに来ているだろうと踏んで熊倉君に電話。出ない。きっと、地下に入っているからだろうと行ってみる。「いらっしゃいませ〜」と声をかけてくれた店員さんが遅滞なく「……いつもの場所で〜す」と教えてくれる。完全に顔を覚えられているのだ……。
 前回の駒八会で、熊倉くんが持って来た知恵の輪が大ブレイク。マッチ棒パズルや数字ゲームに移行し、全員が頭を捻ることになったのだが、今回は、駒八会ではないものの先日ハマったという金森君が新しい知恵の輪を3つばかり買って来た。キャストパズルというシリーズで、その名の通りキャスト(鋳造)で作られたガッシリしたものなので、ハリガネを曲げて作った昔ながらの知恵の輪のような、力でこじ開けるということは絶対に出来ない。なんだか、お酒も飲まずにダラダラ汗を流しながら知恵の輪に向かっているメンバーが続出。うーむ。
 この駒八回で、熊倉君の奥さんから、うちの女房にぜひプレゼントしたい物があると云う。後で持って来るからといっていた、それを見せられてびっくり。全高40センチ以上、全幅70センチは越えようかと云う、超巨大な緑のかたまり。超巨大ハロなのだ。
 機動戦士ガンダム第一話で、待避壕に避難するフラウとアムロのエレカに乗せられていた、絵としての比率がとても巨大なハロ。あの大きさをも軽く超える、超巨大ハロだ。実質上、一般民家の廊下を塞ぐぐらいの横幅は確実にある。UFOキャッチャーの景品らしいが、あまりにも大きい。
 ありがとう、熊倉夫妻。有り難く頂きました。
 さて、それからが一騒動。巨大なビニール袋に入ったそれを僕が肩に担ぐと、ハロの顔がちょうど背中に来る。ヒゲのおじさんが、サンタクロースの袋ほどもある緑色のものを担いでいれば、駅を歩いていても電車に乗っても、人目を引かぬ訳がない。結構な人が呆れて振り返っていたようだ。
 かくしてハロは、我が家に収まった。女房は、家中のハログッズを並べて写真に撮るんだと張り切っている。さぞや、壮絶な絵になることだろう。

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2003/11/18

歩け歩けだぞ

 知る人ぞ知るマル秘情報だが、神北はデブである。まあ、「ああン?……170センチ97キロォ……? お前なんざァま〜だまだ。その身長なら目方125キロを超えてから出直しナ!」ってなご意見もおありでしょうが、本人としては、食うだけ食うクセに自分の腹が嫌なのである。
 そこで、三日坊主的自主安息日を多量に挿みつつも、近所の公園のジョギングコースをでこでこ歩くことにしている。我が家からジョギングコースまで往復1.5キロ。コース自身が一周1キロ。通常3〜5周するから、計4.5〜6.5キロ。ありがたいことにコース中に公園内の時計があるので、図らずも1キロの周回ラップが取れる。去年の夏に熱心に歩いた頃は、日に日に歩き方が巧くなり、最初の3周程を1周7.5分で回れるところまで行った。5周を平均すると1周8分。5周を約40分で回り、一時間程で余裕で家まで帰って来た。時速6.5キロ。最高ラップでは時速8キロで歩いていた計算になる。
 もともと、よく大学からの帰りにバスに乗らずにテコテコ最寄り駅まで一時間半程かけて歩いていたし、今も比較的歩くことは嫌いではないので、自由業の唯一の特権である時間の融通が利くことを利用して打ち合わせの帰りに一駅や二駅むこうのターミナルまで歩いたりもする。もちろん天候にも依るが、九段下の打ち合わせだと神田の古書街を経由して秋葉原に至る道を歩けるので、結構楽しい。そりゃ財布が軽い日に歩く神田の街は、季節に関係なくココロのスキマに木枯らしが吹き捲くっているが、それでもなんだか嬉しい。
 「毎日、池の周りを回るより、どこか目標を決めて遠出をした方が楽しくないですか?」というご意見もいただくが、近所をぐるぐる回るのは、それはそれで便利だ。たとえ、夏の炎天下に歩き疲れて気持ち悪くなっても、1キロほど歩けば家に帰り着くことが出来る。一度、適当に知らない道を適当に右へ左へ巡り歩き、くたびれるまで歩いて、さて、どうやったら帰れるのかなと算段をする段になって腹が痛くなって来たことがある。その時は、見知らぬ街のセブンイレブンでお手洗いを借りて急を凌いだのだが、夏の散歩用の格好は、膝丈のパンツと袖無しシャツというかなりラフな、汗まみれになってもいい(というより確実に汗まみれの)恰好なので、喫茶店などにも入り難い。というわけで、夏は、近所をぐるぐる回ることが多くなる。
 秋から冬場にはそういうことは少なかろうということで、コースを変えて遠出をすることが比較的多い。最寄の駅の脇を抜け、隣の駅を通り、余裕があればその次の駅に到り、最終的にその更に向こうのターミナル駅にあるパソコンショップを目指す。また、逆方向には、いつもの公園を抜けて、二駅向こうのターミナル駅の大きな本屋を目指す。いろんなパターンが選べる。さらに帰りは駅の反対側を歩くことで、行き帰りとも景色が新鮮だ。また、冬は、夏のようにぼたぼた汗をかかないから、ジーンズにリュックといういつもの格好で歩いてゆけるため、行った先で店に入ったり物を買ったりすることが出来るのも楽しい。関東平野の中でもそこそこ都市化されている地域のため、どの方向に出ても「店一軒もない住宅地」や「畑や田んぼのど真ん中」というものに突入してしまわないのも、山や海で方向が制限されないのも、ありがたい。
 てなことで、果たして今日は歩くのか? それは、天気と気分次第なのである。

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2003/11/14

番号を振るぞ

 日本SF大会は、一続きの一本の企画ではなく、学園祭のように様々な企画が平行して動いている。たとえば、今年の T-con 2003 でも全部でほぼ120企画ぐらいが動いていた。この中には、二泊三日のほとんどを通じて動いている常設企画や、2時間単位(1時間30分の企画+30分の休憩・移動時間)で次々と動いてゆくコマ企画、常設と云う程ではないが何コマにもわたる長い企画などがある。参加者は、その中で、自分の参加したい企画を自由に渡り歩く、企画に巡り疲れたら飲食の供応される常設のレストルーム(今年は、成年に対してはお酒も出した)で一休み。さらに今年は全員合宿のため、自分の宿泊室に戻れば眠ってもいい……といった具合で、自由に過ごす。
 当然、この企画は、実行委員会が準備するもの、参加者有志が大会に申請して持ち込むものなど、さまざまなパターンがある。しかし、その全ては、事前に大会実行委員会の企画セクションに把握、管理され、ゲストの到着出逹日時や機材の流れ、企画の性質や人の流れと云った様々な要件を重ね合わせ、それこそ、命を削るような苦労を経て、大会全体を見渡す大タイムテーブルに組み込まれるものだ。事前に集客数の予想を立ててあの時間この時間の大きな部屋小さな部屋に割り振るのだが、同じ時間の企画にゲストが重複していないか、用意できる数の上限を超えてビデオや音響機材を使う企画がかたまっていないかというレベルは当然のこと。タイムテーブルを組むことに慣れたスタッフは、音を出す(聴かせる)企画が二つ並んでいたりしないか、その企画の間の壁は鉄筋で厚いのか簡単なパーティションで薄いのか、あの企画とこの企画は顔を出す参加者の傾向が近いからできるだけ重ねるのは避けるとか、企画出演者が夜に弱かったり放っておくとどんどんお酒を呑んでグデングデンになってしまう人なので早い時間帯に入れるとか、ありとあらゆる状況を勘案しながら、タイムテーブルを作り上げる。
 これは一面、国鉄の大時刻表作成作業に似ている。素人目には列車の時刻表なんて、始発時刻があって駅間の所要時間を入れてゆけば、ほぼ機械的に作っていけそうな気がする。だが実は、駅の間で列車がすれ違えない単線区間があったり、普通列車を追い抜ける待避線がある駅が限られていたり、列車やルートによっては途中で二つの列車に分かれたり機関車を増結したり、ターミナル駅での乗り継ぎ時間も考えなくてはならない。そのため、昭和中期から大々的に電子計算機を導入していた国鉄の技術力を持ってしてもこの作業を自動化することは出来なかった。そのために、全国津々浦々の路線図と駅間時間を全て頭に納め、列車経路や運行作業のための所要時間をほぼ把握していると云う神様が必要だった。国鉄解体からまもなく20年。当時部屋一つ占拠していたようなコンピュータと同等の機能が膝の上や手のひらに乗ろうというこのご時世、今のJRがその作業をどのようにして行っているのかは寡聞にして知らないが、今私の知る限り、今それに最も近い作業をしているのが、大会のタイムテーブル組み込み作業だ。
 しかし、それでも、ギリギリになるまでゲストの参加・不参加が確定せずにプログラムに掲載できなかった企画や、いろんな都合で時間が変更になった企画。天候不順や参加社が一人もいなかったので見送る企画や、突然顔を出してくださったゲストに急遽お願いして入る企画、ゲスト同士が意気投合し「おい、俺たちにこんな話をさせろ」と降って湧く企画など、当日になってもタイムテーブルは揺れ動く。
 T-con 2003 実行委員会の大会レポートの編集部では、現在、こうやって動いた企画を含め全企画を把握するために、企画セクションの協力を得て、現在、大会の全容を知るための完璧版タイムテーブルを作っている。
 11月13日木曜日。平日昼間だが、体の空く編集員を集め、その作業が行われた。
 この日集まれた人間だけではちょっと大変な作業だったが、まあまあ、整合性のとれたタイムテーブルと、それぞれの企画に対する番号付与が完成した。この番号は、大会レポートのための番号付与だ。企画セクションには全ての企画に振られた企画の通し番号が存在するが、その中には発案されたまま放棄された企画や早期に断念した企画などレポートには不要な物が多い。このためレポート編集部としては独自の番号を振る必要があった。この120個近い企画のうち、どれだけがレポートに乗せられるかはまだ未定だが、出来るだけがんばりたいものだ。

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2003/11/10

2100枚だぞ

 写真の整理をした。この夏の日本SF大会のレポートの編集作業の為、記録班の撮った写真を全部アバムから引き出し、企画単位に選り分けたのだ。企画に含まれないものも、参加者の模様を撮った全体的なスナップや、大会の看板や展示物など風物詩的ー物、ゲストのスナップ、スタッフの働いている姿。いろいろな(銀塩)写真が、合わせて約2100枚。2泊3日、まるまる45時間。タイムテーブル上の企画総数112。消えた企画、増えた企画があるから若干それよりは増える方向で動くとは思うが、それにしても、大きなイベントだった。その大きさを改めて実感するのが、この写真の量と、バラエティーの広さだ。
 神北は、二日前に先乗りし、一日後まで後泊したから、あわせて5泊6日。ほぼ一週間に渡って会場に張り付いていたが、ほとんどの時間を裏本部と言われていたスタッフ寝部屋兼用の作業スペースで、持ち込んだMacに向かってシールを作ったり、缶バッチを作ったり、小さな幟を作ったり、四六時中何かを作っていた気がする。
 おかげで、表で何が起こっていたかはほとんど知らないのだ。今回の整理のおかげで、初めて、大会の企画の数々をビジュアルで見る事が出来た。竹内くんが探して来た長さ2mのアルミ定規が大活躍した宇宙船ふじモックアップ作製など、形を作った上で、その中に飛行士役が入って、外に陣取った管制官役とともにミッション・シミュレーション行ったため、かなり長い時間、作り上げたモックアップがでで〜んと会場に偉容を示していた筈だが、その間一度も様子を見に行く暇が無くて、この写真で初めてその姿を目の当たりに出来た次第だ。また、展示系の企画も見る機会が無く、へー、こんなモックアップがあったのか〜とか、今になって感心する事しきり。
 しかし、浸っている暇はない。あと1900枚、デジカメのデータが残っているのだ。

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2003/11/07

仕事に流されて行く私……だぞ

 今週は、ちょっと大きな仕事の締め切りだった。地図図版6点なのだが、見開きページだったり状況を2枚で表したりするため、計8枚の地図を描いたことになる。(実際には、没にしている試し描きもあるので、12点ぐらいは描いているが……。)ほとんどの地図の場所はトラック諸島。
 南洋の島というのは、最近ではダイバースポットになっており、しかも、沈船情報等も喜ばれる為、(浅瀬に限られるが)どこに何という艦船が沈んでいるかまで判るような資料も多い。その意味では、資料に事欠かないように見えるし、実際、量も多い。が、決定的に観光地図は、観光地に篤くそれ以外に薄い。小さな島が寄せ集まって出来ているような群島部では、そこそこの地図帳でも、全部の島名は載っていないのが常だ。これは、一枚ものの拡大図でも同じ。その上、本文中に出てくる地名は、当時の日本人が南洋の委任統治領に片っ端から付けた和名である事が多く、現代のどの地名にあたるかを確認するのは、なかなかホネの折れる作業だ。

 一番弱るのは、細かく資料を調べ込むタイプの作家さんに多い、文献に書いてある地名だから使っちゃいましたパターン。この仕事ではなく、ずいぶん昔の仕事だが、筋立て上の要地になっている地名がさっぱり判らず、作家に直接聞いてみた所、「○○と△△の間で、史実でも戦車戦があったらしいんです」てなことを言われた。そりゃ、作家さんは、文献読んでそれっぽく聞こえる地名があったら使うんでしょうがね。それが○○から△△方面に向かって、何割ぐらい言った所なのということには、得てして触れられてないものなんです。○○東方15キロの山の麓の集落××とか書いてあればいいんでしょうが、なかなかそうはいかずに、単に××とだけ地名が書かれている。都市の名前なら確実、村の名とかでもまだ、なんとかしようも在るんですが、家5〜6軒のちっちゃな集落名だったり、へたをすると「ここらへんは、なんて言うんだ?」と聞いたら地元の人が「あ〜ここは、『西の畑』だぁ」とか教えてくれたからというものもあるんだと思う。この、『西の畑』とか『北の林』とか『アメンボ池』とかの、村内でしか通用しない地名が、部隊指揮官の記録に書かれたりして、後々になって戦記作家達が、『西の畑戦車戦』とか『北の林蹂躙作戦』とか『アメンボ池掃討戦』なんて名前をつけたらもう終わり。それは、どこにある場所かもよく判らないまま、有名な場所という事になってしまう。
 また、日本語に訳す時にもとの綴りが判らなくなることも多い。普通使っているのは日本のものか、アメリカかイギリスの地図だが、これらの中には、地名を、英語読みに綴りを置き換えたり、英語地名にしていたりするものがかなり在る。さらにそれを日本語にしていたら、もうお手上げだ。
 更に、植民地として取り合いになった地域は、歴代宗主国流の読み方があって、その上、為政者が変わるタイミングで都市の名が全く変わっていたり、元に戻っていたりするので、これは複雑怪奇な世界だ。歴史の節目で名前が変わる事も在る。ベトナム戦争の集結でサイゴンがホーチミンに変わった事や、ロシア革命以降、レニングラードになっていた地名が、ソ連崩壊でサンクトペテルブルグに戻った程度の事は、自分の生きている間に体験した事だから覚えているが、細かくなって来ると手が付けられなくなる。
 また、フランス外人部隊が、オランと呼ぶアフリカの街は、フランス海軍がメール・エル・ケビールと呼ぶ地中海に面した軍港と、大雑把に言って同じ町だ。ほとんどの地図では、オランと云う地名は出ていても、軍港の名は出ていない。
 こんな知識をいくつもいくつも溜め込む、トリビアな暮し。それが、地図描きの日常だ。

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2003/11/05

新宿のカレーとレッズ優勝だぞ

カレー
 2003年11月3日、ニフコンから帰って来て丸一日ゴロゴロしたら、なんとなく外に出てみたくなったので、どこかに飯を食いに行くことにする。とはいえ、近所のよくいく店に特にトキメキを感じなかったので、遠出を決意。先日買って来た、ぴあの『最新!最強!究極のマジうま食べ放題 首都圏版』で、なんか無いかなぁと探す。と、カレーのコーナーに新宿中村屋本店4階のラコンテが上がっている。それも、ランキング一位。何度か行った店が一位というのも嬉しいもので、これはいかねばと決意。女房を引っ張りだし、小雨の中を出かける。
 どうせ、都内まで出るのだからと、きっと欠食児童の、真庭くんと古市くんを誘うことにする。しかし、古市くんは仕事中みたいで連絡取れず。ちょうど家に居た真庭くんに連絡を取って、引っ張り出す。
 ウィークデーのランチタイムは込むそうだが、休日は意外と空いているのがラコンテの良い所。ゆったり座って、好きなカレーを自由に食べられるのがいい。食べていると、ケータイが……。あわてて取ると古市くん。
「いま、やっとバイトの休憩タイムなんです。お電話いただいたみたいで……」
「いや〜、すまんなぁ、飯食おうと思って誘ったけど居なかったから、真庭だけ誘ってもう食ってるトコ」
「そ、そんなこといわれても、仕事中ですし……」
真庭くんに替わる。
「やー、おいしいカレーですよ。はいはい、じゃ、お土産にカレーパン買ってってあげますから」
馬庭くん強気……。

レッズ
 かくして、僕たちが暖かく気持ちいいラコンテでおきらくごくらくにおいしいカレーを食べていた頃、近くの国立競技場では悪天候の中、我が家のご近所さんチーム、浦和レッズが、鹿島アントラーズ相手に、2003Jリーグヤマザキナビスコカップ最後の死闘を行っていた。試合は、4-0という一方的な点差で、レッズの勝ち。ついに無冠の王者が至高の冠を戴いた瞬間であった。おめでとうレッズ&サポーター。
 さて、カレーを食い終えてのほほんと帰途についた我々は、埼京線に乗ろうとした所で、興奮覚めやらぬまま、声を限りに歌い続けながら行進して来る赤い人の帯に遭遇。この帯は、コンコースの向こうに霞んで消えるまで途切れること無く繋がっていた。普通のチームのサポーターなら、これは勝った時の反応だと判るが、レッズサポーターは、そんな生易しいものではない。昨年、勝ったアントラーズ側を完璧に圧倒する勢いで「We are Reds!」と選手を励ますシュプレヒコールを上げ続けた実績がある。疲れ果てながらも喜んでいるのか、悔しさを元気で押し返しているのか、歩いてくる人たちの表情からでは、試合結果を窺い知ることが出来ない。いや、試合結果はまだいい。レッズユニフォームで真っ赤に染まった埼京線は、すごい密度で、ちょっと乗れそうにない。
 しかたなく、我々は、総武線、秋葉原経由京浜東北線で帰途につくことにした。
しかし、よかったよかった。おめでとうレッズ&サポーター。

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2003/11/03

ニフコンで旧交を温めたぞ

 アットニフティ・コンベンション通称ニフコンに行って来た。缶バッチマシンを担ぎ、シール企画用の機材を用意して。場所は、鬼怒川温泉ホテルニュー岡部。言わずと知れた岡部グループの巨大温泉ホテルの一つだ。

 11月1日、我々は、恵比寿駅ガーデンプレイス口に集合。神北と安達くん、竹内くんだ。今回はこのメンバーの他に、電車組で辻堂くんがいる。
 とりあえず出発。首都高に乗ってぐーるぐる振り回され、気がついたら東北道。なんか、どれだけ経っても、なんとなく頭に入ってきたりしない道路網だな、首都高って。特に、自分で能動的に走り回らない区間は全く解らない。知らないうちに増える新線がそれに輪をかけて経路を難解にしている。
 安達くんは、二日前に、アメリカ西海岸二泊三日出張強行軍の旅から帰って来たばかり。神北は、企画用の素材を徹夜で作り続けていて、一睡もしていない。毎度、コンベンション前というのはろくでもない状態なのである。
 渋滞に悩まされつつ、一路今市インターへ。今市市、知識としては、足利銀行の本支店リストでいつも眺めていた今市支店があることぐらいか。日光街道から、鬼怒川へ折れて行く道すがらだ。今市の市内は、三連休にあるらしいそば祭りの準備や、当日の迂回路を示す看板で、ちょっと賑やかになっている。しかし、なんだか、あまり駐車場が整っていそうな店がない。しかたなく市街を抜けて郊外に出ると、少しずつ駐車場を広く取った郊外型の外食産業。ラーメン屋やレストランとかが出てくる。ハンバーグ系の店が見つかったが、道の向こう。「しかたない、もちぃと走って何もなかったら引き合えしてあそこだ」と、最悪を想定した目星を付けて、少し前に進む。と、見つかりましたよ、ステーキのリーゼ。小さいながら味で客を集めているという風情のステーキハウスだ。ちっとも気取った店ではなく、どちらかと言うとステーキハウスというよりも、街道沿いの喫茶店の印象がある。
 神北と安達くんは、リーゼステーキのB(大きい方)、竹内くんはヒレカツ定食。ミディアムというには、若干まだ赤い部分が多く見えたが、安達くんのレアと比べると、神北のミディアムが確実に火の通りが良いのが見て取れる。しかし、安達くんのも、けして生焼けではなく、ちゃんと火が通ったレアステーキだったそうだ。竹内くんのヒレカツも、コートレット(カツレツ)と呼ぶべきではないかというぐらい、ちゃんとしており、シェフが真面目な上に、いいウデをしていることが、我々クラスの経験でもヒシヒシと感じられる。ぐぐってみたが、特に、載っているページはないけれど、かなり当たりの店だった。今市ICから鬼怒川に向かって走る道の左側。ぜひ通りかかったら寄ってみて欲しい。
 さて、腹ごしらえをした我々は鬼怒川温泉街のホテルを目指した。ホテルニュー岡部。我々が夏に日本SF大会T-con 2003を開催した時の会場、ホテルニュー塩原と同じく、岡部グルーブに属するホテルだ。今回は全く使わなかったので、新館の様子はよく解らないが、本館は、ニュー塩原の西館に酷似。同時期に、同一設計事務所の設計で、同じ工務店が施工にあたったのではなかろうか。初めてのホテルであるのに関わらず。古巣に帰って来たような安心感。
 受付に行くと、FMAUG(Macintoshアップル・ユーザー・グルーブ)の松木ゼネラルマネージャーがいる。別働隊の辻堂くんも来ている。パパっと登録を済ませ、部屋に荷物を入れる。部屋の作りは、一部畳敷き+ベッドが二つ。ニュー塩原の西館に酷似。その後、メインの企画会場『きぬ(鬼怒)』を視察。かなり広めの部屋で、ニュー塩原で言えば『梅1-3』みたいな感じかな。三分の二を畳敷き大広間にし、残りの一部を下足履きの絨毯仕様にして使っている。
 メイン会場のすぐ隣が大浴場なので、当然、入る。まず笑ったのが、大浴槽の半円形の作り。ニュー塩原の西館に酷似。ただし、ニュー塩原の西館の大浴場は完全に地下だったが、ここの風呂は、一階なので、日が差す。明るいイメージも気持ちいい。
 その後で松木さんに教えてもらった本部を訪ねると、ニフコンの中核になって動いているアクティブなフォーラムマネージャーたちが、わんさと居る。クマゾーこと諫山くんに「ぬわにぃぃ〜、俺達が機能から準備に入っていてまだ一度も行ってない風呂に、もう入ったダトぉー!」とのお言葉をちょうだいする。だって温泉旅館なんだもん! ここに居るのは殆どが、その昔、神北がニフティFSF(SFファンタジー・フォーラム)でフォーラムマネージャーをしていた頃からの仲間と、その後、ニフコンの立ち上げ期にスタッフとして走り回っていた時に知り合った人たち。みなさん、自分のフォーラムを率いて、人の輪の中心に居る人たちだ。こういう社交性がコンベンションのスタッフに向いているのかもしれない。中には、山本“酔うぞ”さんのように、第二回大会TOKONから参加して居ると言う、旧い古いSFファンも混じっている。
 そして、一番、会いたかった人が居た。最初の熱海ニューフジヤホテルのニフコン以来、ずーっとニフコンと会場の橋渡しをしていただいている、そして、T-con 2003でも大変お世話になった、日本旅行の森川さんだ。
 気持ちよく仕事に入れそうな雰囲気。とりあえず、機材を運び、シール屋の準備をする。シール企画と、平行して、缶バッヂマシーンもセッティング。ところがおおっと。大会以降、マトモに使っていなかった女房のバイオが、やたらと新しいパッチを要求。そういや、Winって夏以降、嫌ってほど゜ウィルス喰らって、大変だったんだよなぁ。しかたが無いので、全部やらせる。その間にメシだ。

 ニフコンの夕食と言えば、立食パーティ。我々は、パーティ会場の舞台から遠い方に場所を取る。森川さんもそこに来る。前は当然、脇も、一応何人かのスタッフがいるようなので、司会者から一番遠い所ですぐ動けるように場所を取る。(と同時に、体を常に空けておく為に、つまらん用をヒョイと言いつけられない位置に身を置くのだ。)
 いつものように長い長い、何をしにここに集まっているのか忘れてしまうほど長い、富士通・ニフティ関係者の挨拶があり、実行委員長(といっても、伝統的に事務局長が実動部隊のトップをとるニフコンでは、日本SF大会の名誉実行委員長や、ゲスト・オブ・オナーの意味合いに近い)の西尾さんの音頭で、乾杯。
 わりと量があり、刺身、中華、しゃぶしゃぶ、ステーキ、等々、等々。バリエーションもかなりある。そう言う所で、酒のつまみ的に取らずに、まず、ご飯とみそ汁を確保してから、おかずを取って回る我々の食し方もどうかと思うが……。
 さすがに、徹夜明けのままでずっと動いているので、おなかの皮が突っ張ると眠くてかなわん。腹がクチたところで、パーティーを早抜けし、一度部屋に寝に行く。が、寝ずに何となく話をしてしまう。
 結局、不眠のまま仕事を開始。とはいえ、夏のSF大会の時のようなちゃんとした台紙は無いし、実行委員会もシール企画を強く進めていなかったので、客側に、交換をするシールという感覚がない。何をやっているのやら、周りからではよく判らない。
 しかたないので、マワリのイベントを見ては、そこ向きのシールを作り渡して行く、コレクターズフォーラムのトマト味の炭酸ドリンクを飲んだ人のシールとか、缶コーヒー呑み比べ企画のシールとかを、竹内くんがいろいろ作る。
 神北は、Illustratorを立ち上げ、追加用の缶バッチのデザインを作る。『デンキネコ』の中村犬蔵さんにも、デンキネコ缶バッチを作って貰う。デンキネコも、『デンキネコ 日本列島改造計画』を経て、ファンムービーの枠を超えようとしている。が、犬蔵さんは、ちっとも変わらず、気さくで、面白いこと大好きなデザイナーというポジションを崩さない。いい人だ。
 竹内くんが、我々秘蔵のデータ集の中から引っ張りだした岡部グループのマークをシールに。これは、ニュー岡部の副支配人に差し上げた。
 そうこうしているうちに、神北は、『きぬ』の間の入り口の柱の陰に、星飛雄馬を見守る明子姉ちゃんのように佇む人影を発見!飯沼さんだ!
わーっと駆け寄るT-con 2003スタッフ残党。走りよる人影にビビる飯沼さんを一瞬にして包囲。こういう時の行動は、速い。
 「いやー、森川さんを通して入ったコンベンションということで、誰か来てるかもと思って、東京から塩原に戻る途中で、チョっと寄ったんですよ……」読んでますねあなた。我々の行動を。しかし、鬼怒川って、東京から塩原への移動中にチョット寄れる所じゃあない。わざわざ何十キロという遠回りのコースを回っていただいたのだ。有り難いなぁ。
 ネット上に上がった夏のSF大会の数々の私的レポートの中で、男泣きに泣き崩れる飯沼さんの写真があちこちにあるのが親戚に知られて、何やってるんだと聞かれたとか、いろいろと、いい話を聞く。また、来年のGコンの参加も考えておられるようで、こっちも楽しみ。
 この後、23時頃になってイベント自体がまったりタイムに突入し、ほとんどの常設企画が開店休業状態に陥ると、ドライバーの安達くんが、まっ先にダウンした。コンピュータの前を離れても良くなった神北と竹内くんは、隣で始まったFPDA(PDAフォーラム)のPDAよろず相談オフに出て、約三人の有志が持って来た20台を上回るPDAを眺めつつ、あーでもないこーでもない。これの使用感がどうだ、アレの使用感がどうだという話をする。やはり、誰も、リナザウのPIMは面倒くさいのでまともに使っていないらしいということが解り、ホッとする。
 夜半過ぎに、まあ、いいだろうということで、とりあえず撤収。その後、デンキネコ上映会へ。
 しかし、さすがに36時間以上動いていて、もうタマラんくなってきた。新作デンキネコが見たかったが、あきらめて部屋へ。
 バタンキューで寝入ったっきり、朝、六時ぐらいまで熟睡、いや爆睡。ハッと目が覚めると、山を朝日が照らし始めている。同じ栃木県内で、山自体が地質的に似ているせいなのかも知れないが、この景色もニュー塩原の西館に酷似。朝食までにはまだ間があるので、まずは朝風呂。西尾実行委員長といっしょになる。夜中にも一度風呂に来たと言う。露天に出ると、寒くはないがいい頃加減の風で気持ちいい。
 朝食はなんと座敷。その向こうの方でオークションも開催されている。のほーっとした、まったり感がいい。
 部屋に戻り、少し休憩してから荷造り。実行委員会本部に顔を出して、挨拶。森川さんとは、今月あるT-con 2003塩原打ち上げでまた会いましょうと約して、帰途についた。
 かくして、我々のニフコンは終わりを告げた。次があったら、またみなさんにお会いしたいものだが、今やコミュニティー文化の中心は、ニフティー内のフォーラムではなく、完全にその外にあるBBS等に移っている。ただ、会員を限定しないこうしたBBSでは、こういう濃い仲間意識は育ちにくいと思われる。次のニフコンはどうなのだろうか……。

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 何があるか知りたい。 含まれていました。 ?

 う〜〜ん。上は、BLOGGERの書き込み主のためのトップページに書かれた、開発元からの新着情報。翻訳者は、インフォシークマルチ翻訳さん。この意味、理解できます? 僕には解りません。
 日本語が問題(状況不明の結構文字化けするので根気よくリトライが必要)を抱えつつもまあ通るだけマシなサービスではあるのだけれど、なんか、新しくいい機能がついたらしいが、何がそうなのかよく判らないという置いてけぼり感覚は辛い。ほんと、なにがあるか知りたいぞ。

 この点、PathFinederのココアテック社のページは親切だ。なんといっても、「日本語」というタブがあり、その中に上がってくる情報は、ちゃんと日本語の解るスタッフが担当していてくれるので、絶対解りやすい。また、メール窓口も、日本語専用の窓口で、専任担当者を置いている。

 ブロガーの提供する機能にはそこそこ満足しているけど、言葉の壁の面だけ、ココアテック社を見倣って、日本人にも優しくなってくれないかなぁ。

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