70名超だぞ
何だか知らないが、噂が噂を呼んでいたらしい……。
事の起こりは、90年代の初頭だ。その頃、神北は、高貫布士さんや橋本純さんたちとともに、ある会社で戦争もののシミュレーションゲームシリーズの副読本として、真珠灣攻撃の本を作っていた。この本は、ゲーム会社上層部による「ゲームの表紙に描き起こされた絵をその時期の全部の関係本に使う」という方針のお陰で、酷い目にあった。だってそうだろう。ゲームと同じ表紙の本が一冊本屋にあれば目も引こうが、何種類も出ているのだ。まず真っ先に売れるのが、ゲームの攻略本。これは間違いない。次に、各データを集約したユニット解説本。これも、ゲームを俯瞰するのに欲しいじゃないか。で、ずーっと下がって、やっと史実を纏めた副読本へと辿り着くわけだ。しかし、「そんなコト(同じ表紙)にしたら、却って売れないぞ」という我々の危惧は伝えたが、本屋の棚をその表紙一色に揃えようと言う会社の方針は変えられなかった。残念でもあり、案の定でもあるのだが、この本はやはり人目を引くことが出来ず、かなり丁寧な真珠灣の入門書であったにも拘らず、ゲーム発売のブームが去ると共にあっという間に本屋から姿を消した。同じ表紙の本の中で最低の売り上げを残して。
この頃のメンバーで、面白いから一緒に本を作ろうよという話になって動き出したのが、並木書房の『コンバットAtoZ』シリーズ。当時、古ぼけた何が何だか解らなくなったような旧い写真や、「設計図から写したもの」と称するかなり下手っビな三面図など、あまり奇麗とはいえない軍事解説本が多い中、逆に、原本そのものではなく、きっちりと軍事知識がある漫画家さんを使い、奇麗な挿絵を入れてもらう方向を打ち出した新シリーズだった。その方法として、文章描きと絵描きが1対1でがっぷり組み、共著ということで、1つ1つの本を出すと云う方針が立てられた。シリーズ全体を高貫布士さんが監修し、で、神北は何をやっていたかと云うと、絵描きがあまり得意としない地図や図表を補作することを中心に仕事していた。
これを始めるにあたり、まだライターや作家としては活動していないような在野の人も含めて、漫画家や軍事評論家という人が一杯要るぞ。しかも、そこそこ気心が知れてなければ仕事にまで結びつけられないじゃないか。じゃ、どうする。まずは宴会でもしようゼと言うことで、ちょうど年の瀬だったので、忘年会と称して小さな宴会を開いた。軍事アナリストとして出版界のあちこちに名前が通っていた高貫さんの顔で、そこそこの人数が集まった。みんな、仕事で軍事関係の記事を書いたり、軍事に絡んだ小説を書いたり、絵を書いたり、それを編集したりしている人だ。この宴会は、かなり盛り上がった。みんな面白がって下さった。軍事談義なァんて、普通の居酒屋のテーブルでするには少々ブッソウな話を、その場全員がワイワイ話せる機会というのは、なかなか面白かったようだ。架空戦記ブームすら到来する前ということもあり、軍事関係の話というのは、一般的には変な顔で見られるものでしかなかったのだ。
おもしろかったからまたやってくれよと云って、お呼びした皆さんから挨拶を頂いたりすると、まあ、言い出した責任ということもあって、この時のグループがまた次をやることになった。実質上、リーダー格の高貫さんに幹事をやってもらうとして、事務作業に関しては神北が手伝うことにした。しかし、考えてみて欲しい。神北は、全くの下戸である。で、幹事の高貫さんもアルコールはダメな人なのだ。下戸二人が、ある仕事の打ち合わせで顔を会わせた後、「じゃ、場所を決めに行ってみましょう」と新宿三丁目あたりの飲屋街にお店を探しに行く。酒飲みとしての勘がまったくない二人が、宴会の場所を探しているのだから、たしかに私情を挟む余地がなくていいという言い訳もあろうが、なんだか間抜けな光景だ。
当時まだ、インターネットで店を探すなんてコト出来る筈も無い(インターネットは在ったけど、見る人も、告知を乗っけようという人も少ないから、かなり偏った情報しか無かった)から、飲み屋のチラシを元に、何軒かの候補を探して行ったのだ。
やっと探し出したのが、『新宿 たぬき』という店である。今は『咲くら』というお店に名前が変わっているが、まあ、新宿の判り易い所にあって、収容人数もかなり余裕があるということで、見るからに便利そうだった。その時、予約名で、神北がちょっとした遊びをした。総力戦研究所という名前で予約を入れたのだ。総力戦研究所というのは、第二次世界大戦の前に日本政府の肝いりでスタートした、広く国際戦略を考えるシンクタンクの名前だ。軍国主義にどんどん傾き、言論統制が進みつつあった日本国内において唯一、この機関の内部では「実はウチの国の軍隊は遅れていて、実戦になったらボロクソにされるんちゃう?」「そらマズいで、ほな、戦争にならへんように、まず政治をしっかりさせんならん」なぁんて会話を自由に出来たと云う、研究者にとっては本当に自由な場だったらしい。もちろん実在したのは半世紀以上前だから、まあ、使ったとしてもまず誰にも迷惑は懸からないし、軍事に興味のある人なら、割と知っていてニヤリとできそうな名前だったので、ちょっとしたイタズラ心で付けたのだ。
当時まだ連絡はメールでという人は稀だったから、幹事作業はかなり大変だった。ほとんどの連絡はFaxで行う。Illustratorで簡単な趣旨や場所日時を書き連ねた説明と申込書とを一枚か二枚に仕立てたものを作り、40人・50人という人に送る。まあ、一日仕事だ。すると、20人ぐらいの人から参加の知らせが届く。2日前を〆切として、前の日に正式な連絡を入れる。当日行くと座敷が用意されていて、その中であれば、何を話してようが構わない閉鎖空間。最初の頃は、まあ20名を少し超える位の宴会だったのだが、コアになった人たちが面白がっていろいろと誘ってくれたお陰で、気がついたら40名を平気で超えるようになって来た。神北はそれを整理するために専用DBを作ったり、いろんな手段をとって来た。
使い勝手がいいので、いつのまにかこの『新宿 たぬき』に店は固定。総力戦の宴会といえば通じるのは当然として、参加者の中では当然のように「こんどたぬきいつだっけ?」なんていう使い方までされるようになる。
基本的に、2ヶ月に一度位のペースにしていたのだが、二年目、三年目になると、40名を超えることが多くなって来た。まあ、店にとっては迷惑なのか有り難いのか判らない客だが、客から見ると有り難い店だった。ある時それが、更に扱いが変わった。一度、東京を台風が直撃し、普通の人はみぃんな飲屋街になんて行かずにさっさと家路に就いたような夜に、40名を超える参加者が詰めかけた。台風の晩、閑散としている店内で40人が大騒ぎ。よほどインパクトが大きかったのだろう。以降、総力戦ですと云うと、かなり無理を通してもらえるようになった。
ところが、この頃から段々大変になって来るのが、行くよという連絡無しに突然来る人の増加だった。まあ、40人の予約に5人ほど増える位なら何とでもなるのだけれど、30人しか申込みがないということで一回り狭い部屋を押さえていて、結局当日になって唐突にプラス15人となると、同じ45人でも幹事の大変さが違う。「すいません、また2人増えたので料理を増やして下さい」「また3人来ました」「また……」……。最後には仕込み量を超えてしまい、「もう、同じ料理は出せませんよ」と怒られちゃう。「な、何でもいいから値段だけ会わせてクダサァイいい……」何度この悲鳴を上げたことか……。最悪、25人の予約で、当日50人近くまで人が来たときは、もう、死ぬかと思いましたよ、ハイ。
しかし、「来れるようになったから、なんとか来たよ。総力戦の宴会だものね」と顔を出して下さると、幹事としては嬉しいのだ。
ところが、二十世紀最後の年、西暦2000年。この年、総力戦の宴会は未曾有の危機に巻き込まれる。店舗改装のため、長期にわたって『たぬき』がお休みになってしまった。その頃は、半年に渡って「さまよえる宴会」として、開催場所を点々としたのだ。しかし、一度二度は自力で場所を探したのだが、やはり予約数から十数人増えるような使い方には向かず、場所が取り難い。結局、まだ休業中の『たぬき』に電話したら、店長さんが、ダイナック・チェーンの中の別の店を紹介して下さった。そこでなんとか凌ぎ、改装なった『たぬき』に戻ったときは、正直ほっとした。
この後、一年半ほど続き、2001年12月の宴会を最後に、総力戦研究所の宴会は休眠に入ってしまった。「頭の悪い方の幹事」神北が日本SF大会のスタッフの活動に力点を置いていて、なかなか開催する気力が出なかったのが、最大の原因だ。その大会は2003年7月、無事終了したのだが、その後も復活させたいさせたいとは思いつつ、どうも動きが取れなかった。同じくして「頭のいい方の幹事」高貫さんも、忙しくなりすぎて、宴会幹事の仕事をしている余裕が取れなかった。
この間に、噂が飛び回ったらしい。「なんでも、総力戦の宴会って言う、秘密メンバーだけの宴会があるそうだよ」という話を聞いたという人がかなり居るのだ。なんだその秘密の宴会って! 別にこっちゃあ誰誘っても良いと云っているし、現にあんたの本を出している会社の編集さんも誘っているゾ。そこから先の連絡が廻らないのは、アンタと編集の問題じゃないのか? 大笑いなのは、幹事代表の高貫さん本人に向かって、「ご存知ですか? なんでも総力戦の宴会というのが……」と話した人までいるらしい。
あと、ただ宴会が無いのだと思わず、「もしやオイラは足切りされたんでは?」と思っていた人がかなり居たらしい。そんなあなた、こちとら自慢じゃないが゜アタマ悪いんだから、人を一人ずつ取捨選択して選り分けるなんてワザ使えませんぜ。単にあたしが手が回らないだけでゴザんす。で、こういう人に限って、聞いて来ないのね。こちとら頭悪いんだから、見えるようにちゃあんと足掻いてくれないと気がつかないよォ。
まあ、それはさて置き。なんとか落ち着いた神北が、やっと気力を取り戻し、また幹事やるかと思うまでに、約2年の月日が空いてしまった。
さて、じゃあ、なんとかスッかと思い至って、旧いデータベースを引っ張り出して来て、再開のお知らせのメールを送ってみて愕然。多くの人がメールアドレス変わってるぅぅ。なんとか、友人関係から話を聞いたといって参加連絡を貰った人は良いものの、さすがに連絡がつかなくなっている人も多いだろうなぁ。こりゃ、人数少ないかなぁ……。と思いきや。
予約期限一杯までの参加表明者数、72名……………………。
おい!
入るのかなぁ、「咲くら」の広間に……。(無理!) ……どうしましょう。
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