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2005/08/12

たいへんだぞ

 私たんニュース2005年8月10日の記事2005-08-10_20:06で見付けたページの話。
「【講座:ペンとともに考える】『やぎさんゆうびん』の謎」というページが凄い。

 もちろんもとネタは、白ヤギさんと黒ヤギさんが、互いの受け取った手紙を食べてしまい、「さっきの手紙の御用はなぁに?」と手紙を書くというエンドレスの童謡である。

  1. やぎは文字の読み書きができる。
  2. 手紙および郵便制度が存在し、かつ機能している。
  3. 白やぎさんと黒やぎさんを結ぶコミュニケーションの手段は手紙に限られる。
  4. やぎは手紙を食べる。

とりあえずここでは以上の4点が条件として与えられていると考えておく。

 という前提から始まり、まず、「読まずに食べる」から最も容易に導かれるのは、「やぎたちは飢えていた」という仮説である。と考察に入る。第一の仮説はこの『飢え』である。事態は牧歌的な「うっかりヤギさん」から、一挙に深刻な食糧問題へと展開してゆく。そして「この二匹のやぎは、北極点付近に取り残されたのかもしれない。たとえば、白やぎさんは英国隊の観測基地に、黒やぎさんは米国隊の観測基地に、それぞれ(タロやジロのように)取り残されていて、間をつなぐのはシベリアン・ハスキー犬の郵便屋さんだけなのかもしれない」という極限まで進めた上で、著者はこの仮説を捨てている。
 惜しい! シベリアンハスキーの郵便屋さんは可愛いので、この仮説は残しておいて欲しい。しかし、いくら私がそう訴えても、著者の探究心はどこまでも真理を求めて留まりはしない。

 第一の仮説飢餓説を否定したところで、著者はこの白やぎさん・黒やぎさんの行動の法則性から、欺瞞行動の臭いを嗅ぎ付ける。そして…

(1) 白やぎさんも黒やぎさんも、相手の手紙を、差出人を確認しながらも「読まずに食べ」ている。
(2) 食べたあとで「さっきの手紙のご用事なあに」という、あたかも過失によって読み損ねた(そして内容を知りたいと思っている)ともとれる返事を認めている。
(3) そして、(1)と(2)が何度も何度も繰り返される。

…という前提から、著者は、彼等の欺瞞行動に隠された意図を読み取ろうとし、やがて…

(A) 白やぎさんも黒やぎさんも、相手の手紙を読みたくないと思っている。
(B) 白やぎさんも黒やぎさんも、相手の手紙を湮滅する必要に迫られている。
(C) 白やぎさんも黒やぎさんも、相手の手紙を受け取りつつ、それを読んでいないことを相手に伝えなければならない。
(D) 以上の手続きが交互に延々と繰り返される。

…という、この童謡に隠された法則性を見いだす。なんと、このヤギさんたちは、飢えていたわけでもないが、かといって「うっかりヤギさん」でもなかったのだ。我々は遂に、やぎさんたちの行動はうっかりを装いつつも何かを必死で守るための戦いだったこと。そしてそれは終わること無く永遠に続けられていることを知った。
 しかし、この牧歌的な童謡を巡る深い深い考察は、まだ道程の半ばに達したに過ぎない。なぜ、二人は、おのれに届いた手紙を読むこと無く食べ、何が書いてあったかを手紙で聞き続けているのか?
 その考察は、「【講座:ペンとともに考える】『やぎさんゆうびん』の謎」のページで、直接貴方が読んでいただきたい。
 大きな謎と、深い悲しみ、そして男達の友情の物語が、一大スペクタクルとなって貴方の眼前に現れる。

 はたして、全ての謎は、解かれたのか?

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コメント

「森のくまさん」のディープさがナイスです。

投稿: 長田 | 2005/08/12 06:12


謎はまだありますよ。

「相手に手紙を送ったと」いう事は元々「手元には手紙用の紙があった」という事。
にもかかわらずヤギ達は手紙として送られてきた紙を食べている。
しかもこの歌は延々と続くのだからヤギ達の紙の備蓄量はかなりのモノだと推察される。
なぜそれだけの紙を備蓄していながら送られてきた手紙だけを延々と食べ続けるのか?
そこで以下の仮説。


(A)やぎさん達は自分ちに備蓄してる紙に対しては食料としての認識がない。
(B)しかし郵便で送られてくる紙(手紙)に対しては食料だと認識する。
(C)やぎ自身はこの矛盾に気がついてない。


嗚々、何と謎の多い歌なんだろう・・・・ (笑)

投稿: 牛丼仮面 | 2005/08/12 07:32

私がとても気になるところ

「仕方がないから」

そう。考察から鑑みるに、ヤギさんたちは、かなり複雑な理由があって着信紙を食べてしまいつつも、「仕方なく」着信した旨を伝え、食べてしまったことまで伝える返信をしたためる。

何故「仕方がない」ないんだろう……

黒ヤギさんと白ヤギさんの背後に、なにかとても大きな力を持つ第三者の存在が感じられるのである。

ううう……こわいよぅ……

(でも、頭の中は、何故かヤギの被り物でシベリアに送られている、部下ZとAの姿が・爆)

投稿: かざま | 2005/08/12 15:46

長田 さま

 森のくまさんの「町で出会った有名人を別の場所で「くまさん」と呼びうるのは、ゲージツ家の篠原勝之に出会った場合のみである。」という断定が好きです。ゲージツ家のくまさんに出会っていれば、その後の彼女の人生も変わっていたろうに……。

牛丼仮面 さま

 彼等は、お互いに互いの最寄りコンビニで封筒と便箋を買い、持っていたペンでサラサラっとしたためて、コンビニの目の前に置いてある郵便ポストから投函しているのかも知れません。とすると、二人は、文明化された社会で暮らしているという可能性が出て来ます。しかし、よく考えてみて下さい。あなたも『ビューティフル・ドリーマー』という映画をご存知のことだと思います。この映画においては、文明崩壊後の友引町に於いて、何故か、無尽蔵の商品を常に満載した無人のコンビニというものが登場します。そしてそれは、あの世界の崩壊しかかった2015年の第三新東京市に於いても同じです。
 ということはです。もし、彼等がストックを持っていないのだとすると(というより、普通、無尽蔵のストックは持っていないものですが……)、この二人の置かれている環境は、今まで想像していた牧歌的な童話風世界ではなく、「現実的な今」か「ラムちゃんの夢の中」か「崩壊しかかった文明を巨大な技術力で無理矢理支えている近未来」の3点に絞られて来るのです。
 しかし、現実的な今、あなたの知合いにやぎは居るでしょうか? 私には居ません。あなたにも居ない筈です。つまり、「現実的な今」という設定では、この「手紙を食い、内容を問いただす返信を書く」やぎは存在し得ないと考えるのが順当かと思います。
 これに関しては、「2015年の第三新東京市」においても同じです。シンジくんと同級生たちは、ずいぶん衝動が動物的で、アスカやヒカリなど女子達から「三馬鹿」と呼ばれて居ましたが、馬でも鹿でもありません。あの世界で崩壊しかかっているとはいえかろうじて文明をコントロールし、享受できているのは人間(と一部のペンギン)だけです。それどころか、他におもだった生物というと、蝉と使途ぐらいしか出て来ないではないですか。ということは、これも想定から外されるべきです。
 するとこのお話しの舞台は、「ラムちゃんの夢の中」であるという説が、もっとも濃厚となって来ます。
 ラムちゃんの夢の中だとすると、そら夢邪鬼のコサエたモノでおまっから、何があっても不思議なことあらしまへん。な〜んでもありや。楽しければええんや。そないな素敵な夢なんや……ということですから、手紙を書くやぎ達が暮らしていても不思議は無いということになります。
 しかし、よく考えていただきたいのです。まあ、ご存知の通りラムちゃんはお友達の多い方で、とってもユニークなライフフォームのお友達が多いのですが、はたして、一緒に楽しく暮らしたいと思うほどの仲間に、やぎが居たかということです。たしかに友引高校の校長は、動物に例えるなら山羊しか無いという風貌の方ですが、たぶん紙を食べて暮らしていないと思います。いや、もしかしたら彼には、紙をいっぱい食える職場として、学校教師という道を選んでいたという一大秘密が隠されているのかも知れませんが、妖怪であるこたつ猫と友誼を結んでいることは周知の事実。そこまでオープンな彼の性格から、紙を喰らう程度のことをいつまでも秘密にしておくとは思えません。
 つまり、これは、夢邪鬼製の夢の特徴を整えつつも、ラムちゃんの夢ではないということが解ります。
 さて、翻って考えてみて下さい。この童謡の登場人物は、「白やぎさん」と「黒やぎさん」だけです。残念ながら「シベリアンハスキーの郵便屋さん」はいません。しかも、よく考えていただきたいのは、「さっきの手紙、何やったん?」と、直接会って聞くことも電話することも、二人にはありません。いつまでも郵便でやり取りするのみです。つまり、黒ヤギさんから見れば、自分が手紙を送り合っている筈の白やぎさんの存在すらも、現実なのか夢なのか、判断しようがないまま、延々とこの状況が繰り返されています。
 「限定される手段を用いて関係性を持つ他者は、その手段の向こう側に実在するのか? という疑問」「永遠に繰り返される現象」これはもう、夢邪鬼の作る夢……というより、押井映画そのものの特徴であります。

 たった106文字の歌詞の中に、押井映画のあの膨大な情報量に匹敵するスペクタクルが詰め込まれている。童謡とは、なんと恐ろしくも佳く出来た物なのでありましょうや。

投稿: 神北恵太 | 2005/08/12 16:38

かざま さま

 「しかたがないので」。確かに、凄く重い言葉ですね。
 まず一つに、「しかたがない」というのは、「あがない」のニュアンスを含むことです。「しかたがないので……する」というのは、単なる動物には芽生えない、規則性や計画性を感じる言葉です。それは、動物にはないもの、人間のみが有する社会性という物に基づいた、知的生命体ならではの論理的行動と云えると思います。
 これで解るのは、彼等の関係が、極めて社会性の強い物であり、協議事項は文書を以て明確にすべき厳密さを要求されているということです。私はそれを、訴訟関係なのではないかと推論しました。互いに引き延ばし工作を謀っているのです。
 では、その訴訟ごととは何か? 謎は深まるばかりであります。

投稿: 神北恵太 | 2005/08/12 17:16

しかし・・・・・
考える程に実に謎の多い童謡ですね。

これと同様の童謡を私は他に知らない。
この童謡を考える時に私の心は動揺する。
全くもって、こんな童謡ってどうよ?
そう考えて止まない土曜日の朝。

。   ∧_∧。゚
 ゚  (゚ ´Д`゚ )っ゚ うわぁ~~ん!!
   (つ   /
     |  (⌒)
    し⌒

投稿: 牛丼仮面 | 2005/08/13 06:54

牛丼仮面 さま

 ホラホラ、泣いてないでコミケにでも行って来て下さい。私は、……私は、……、私は (ToT) 仕事してます。
。   ∧_∧。゚
 ゚  (゚ ´Д`゚ )っ゚ うわぁ~~ん!!
   (つ   /
     |  (⌒)
    し⌒

投稿: 神北恵太 | 2005/08/13 09:42

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