うっほ、うほうほ、うっほっほ、だぞ
2005年12月20日。『キング・コング』を観た。上映時間3時間超という超巨編。
長尺のわりにダレ場が無いとは聞いていたのだが、まさかこういう意味だったとは思わなかった。驚異に満ちた作品だった。
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ここから下は、お話しのキモ(と神北が思ったコト)について
書いてあります。未見の方は、できれば、劇場でご覧になって
から、お読み下さい。
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この2005年版『キング・コング』。随分と——はっきり言えば不必要なほど余情たっぷりに——丁寧に丁寧に描いたストーリーは、どこもたしかに大事なのだが、どうしてもモッサリしている。また、戦闘シーンはCGのブレ表現でスピード感を出しているのだが、逆に云うと、鮮明度の欠ける、何が行なわれているのか良く判らないような絵が延々と続くので、少々飽きる。
たしかに、大スペクタクル、お話しも筋は(まあ、原典通りなので)充分に面白い。数々の巨大進化したクリーチャーは現代最高の出来。秘境スカル島の威容は圧巻。だが、1930年代という舞台設定とキャラの立ち位置を観客の頭にしみ込ませるために極めて丁寧に進む導入部や、あくびが出るほど1バトルが延々と続く戦闘シーン(といっても、単なる前哨戦のブロントザウルスのスタンピートがとてつもなく長回しだったり、なんとなくコングが勝っていそうとか、恐竜が反撃に出たのだろうなとかは判るのだが、めまぐるし過ぎて上下も判らない転がり落ちながらの戦闘シーンがお互い決め手に欠けたままずーっと続く)とか、メリハリとか、エッセンスをまとめるとか言う行動原理は、ほぼ無い。いわば、「公開作品が、そのままディレクターズカット版だった」ような感覚。
もちろんそれを、どこも明確にテンションの落ちた「ダレ場」にせずに、どこも「ハレ」と「ケ」でいえば「ハレ」のまま3時間保たせてしまうという監督の技量や脚本の出来はものすごいのだろう。が、この監督は、『食傷』という言葉を学んだ方が良い。キングコングに関する大喰いチャンピォンの選んだメニューを一般人にさあ食えというのだから「美味いことは判るが、量が冗談ではない」。
ちなみに、神北は久方ぶりに上映中にトイレに立つということをした。まだどちらかといえばダレ場よりである、コングと攫われたアン=ダロウが山の頂のコング族の砦で朝日を眺めるラブシーンだった。昔風の映画館だと音声が流れているからまだ良いんだが、シネコンだとトイレに行くと音が流れてこないのでキツいね。
ただ、だからといって、この作品、嫌いかと言われると、そうでもない。ワリと面白かったんじゃないの?
まず、登場人物の対比が良い。前に出るのは4人。
記録映画の監督カール=デナム。こいつは、エゴイストで、自分の面白いと思うものは世界中が面白がるという確固たる自信を持ち、そのためには手段を選ばない。
脚本家のジャック=ドリスコルは、デナムにいいように引っ張り回される善人で博識な知的階級の男。どちらかといえばひ弱なモヤシ君で、デナムの策で船から降り損なう。
ヒロインのアン=ダロウは、売れない喜劇役者。ドリスコルの書く芝居が好きで、ドリスコル脚本ということで一も二もなく船に乗る。
キング・コングは野獣そのものの野性的な男。(いや、野獣だって(^_^;))
『伝説のスカル島を記録映画に撮る』というデナムのエゴに乗せられた被害者2人、ジャックとアンが島へ向かう航海の中、船上で恋に落ちる……だけで済んだら、そんなに驚くことも無い恋愛映画だったかも知れない。ドリスコル役のエイドリアン=ブロディは、ヒュー=グラントよりはちょっとオタクっぽいけど、わりと気の弱いラブコメの主人公が似合いそうだしね。
だが、そこに恋敵が割って入るのが、ストーリーの必定。
船内に、恋敵候補はざっと4人。
毅然とした統率力で船をまとめる船長のイングルホーン(田中芳樹版小説ではエンゲルホーン船長となっている。)は、まっとうな貨物船船長ではなく、アフリカをはじめ世界各地で動物を捕獲して、アメリカの動物園に売るような、どこか裏街道の匂いのするコワモテの海の男。
ヘイズ一等航海士は、公然と黒人が差別されていたこの時代において船長の右腕として、実力で船内を取りまとめる逞しい男。
見習い船員のジミーは、野球が大好きな若造。
もう一人は、アンの相手役、秘境を探検するタフガイ俳優としてスカウトされた、近年ぱっとしないアクション男優ブルース。
しかし、ジャック=ドリスコルの前に立ちふさがったのは、この三人ではなく、7メートル半の類人猿、キング・コングだった。
マッチョ雄とヤサ男の女性争奪戦。それは、自然が猛威を振るうスカル島に於いて、絶対的にキング・コングに有利だった。
しかし、一念奮起したジャックは単身、万難を廃し、策を練り、勇気を振り絞って、仲間を食い殺した恐竜や巨大昆虫、巨大沼ヒルに満ちた人外の地を駆け、コング族の営巣地、彼の親兄弟であろう巨大な類人猿の骨の残る、島の高みにある「砦」に登り、アンを救出する。追うキング・コング、逃げる2人、チェイスはそのまま、この異界の果てにある門へと続く。
ここで、アンをあきらめていれば、コングの運命は変わっていた。だが、コングはジャックとアンを追って、門へとやって来てしまう。門では、大量のクロロホルムを用意して、キング・コングを捕獲しようとするカールが、イングルホーン船長たちとともに待ち構えていた。
かくして、秘境を探検した勇敢な男、カール=デナムは、その戦利品として、文明社会が未だ見たことも無い野生の神秘を持ち帰る。そして、彼が口癖のように言っていた、「映画の入場料(と同額)だけで、誰にでも見せる」見せ物を始める。
ニューヨークに戻ったカールは、紳士淑女の集まる劇場で、舞台上に立った。そこにはカールと、その見せ物の道具にされた哀れな野獣の姿があった。……
まず、理解していただきたいのは、72年前の1933年版では、水夫だったジャックが、アンと同じショウビズ界の脚本家、非マッチョなインテリに変わっているところだ。このため、マッチョ雄とヤサ男という対立軸が明確になった。野生パワーのコングと知恵と機転のジャックは、どちらも同じぐらいアンにメロメロなのだが、接し方からなにからまるで違う。でも、観客は気付く、「こいつら、同じぐらい不器用だ。」
そう、その不器用な男2人が、彼女をゲットするためにもがいて足掻いて、本気になって(文字通り)奪い合う。『電車男』ならぬ『脚本男vs巨猿男』。これは、そういう異種格闘ラブストーリーなのである。
そして、最初はスター風を吹かせて、危険なことはしたくないと云いつつ、そのジャックの奮起にアテられて、最後には勇敢に銃を取る売れないアクション俳優ブルースは、1933年版のジャック=ドリスコル役の俳優ブルース=キャボットから名前が取られているように、ジャックのもうひとつの面の投影というか、次第に共感し、その影響を受けて勇気を示すその他大勢の代表格となっている。
時間的余裕のおかげで出来た、こうした丁寧な人の配置の妙が、この映画の魅力であろう。
ニューヨークの劇場で暴れ出したコングは、街を走り回った挙句、アンと出会ってしばしデートする。このシーンは、キング・コングとアン=ダロウの2人きりの世界である。そしてラストシーンへと続く、エンパイア・ステート・ビルディング登頂。スカル島の山の頂にあるコングたち一族の砦から朝焼けを眺めて始まったムキング・コングとアン=ダロウの恋は、摩天楼の頂で明ける大都会を見ながら、終わりを告げる。
ラストシーン。キング・コングは、銃弾を受け、摩天楼から滑り落ちて、息絶える。お話しはキング・コングとアンの悲恋の筈なのに、アンの身を案じて摩天楼の屋上まで登って来たジャックのおかげで、そのシーンは何故かさばさばしている。これは、3時間かけて丁寧にアンとジャックを描いた賜物なのだろう。
CGによって作り出された、生き生きとした表情のコングがとにかくいい。テーマ的に言うと、訴えるものは文明の暴虐とかいうことになるのだが、そんなことは放っておいて、やはりこの大型類人猿には、愛がある。なにか、チャップリンにも、シュワルツェネッガーにも、ブルース=リーにも、どこか通じるものがある。この3人は移民もしくは移民の子で、アメリカ社会にとって異界からの訪問者であった。キング・コングは、こうした名優たちの列に並び叙せられるべき、異界からやって来たハリウッドの名優、名士の代表格でああり、本作は彼の久しぶりの主演作なのである。
さすがに、普通の映画2本分の長さともなると、そうそう万人に奨め辛い。が、これだけの映像を大スクリーンで見ておかないのはあまりにも惜しい。
なんだか知らない、南洋の驚異を「映画の入場料(と同額)だけで」見せる、怪し気な興行師の派手派手しい宣伝に乗せられたつもりで、劇場に足を運んでみていただきたい。
この映画全部が好きになれるかどうかは判らないが、確実に、キング・コングは好きになれる。
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コメント
前作での3時間x3という短い尺に押し込まなくてはならないという、どう考えても無理な作業の欲求不満が一気に暴発したって感じ?
投稿: 森野人 | 2005/12/22 10:38
たぶん、「食傷」という言葉は英語にありません。おそらく英語を使う白人には存在しない概念だと思われます。
投稿: 笹本祐一 | 2005/12/22 12:32
森野人 さま
前作で膨大なストーリーを端折りまくった反動かどうかはとにかく、機転を利かして観客が補ってやる必要の無い丁寧な人間描写や人間関係の構築が出来ていたことは確かですね。それこそ、江戸時代の歌舞伎みたいに、半日続けているから客は好きなところで用を足しに出たり寝転んで飲み食いしたりしていて良い環境だったり、はたまた上映中に10分ほどインターミッションでも挿んでいれば、何の文句も云わないんですけどね。188分はねぇ。私的には、興味は保つんだが膀胱が保たないッス。あれは生物として我慢の限界を超えてました。
笹本祐一 さま
ハリウッドの胃袋はバケモノか!
投稿: 神北恵太 | 2005/12/22 16:22
おくればせながら、私も「キングコング」観てきました。
はっきりいって、盛り込み過ぎだと思いますねぇ。二時間以内にまとめたほうがよかった。
救助隊の苦労談はすごいCGだとは思いますが、メインストーリーに関係ありません。ほとんど端折っちゃってよかったです。
キャラクターもブルースはともかく、ジミーはよけいだったと思います。クライマックスはコングとドリスコルの一騎討ちになるのに、前半ほかのキャラを描きすぎ。
ところで「美女が野獣を殺した」というのが「キングコング」のテーマのひとつなわけですが、この映画の場合、逆も真だったのではないでしょうか。
映画の後半、美女にあてられたキングコングは夕日を愛で、女性をかばうロマンチストの紳士になってしまう。ところが、もともとはそういう惰弱な文人だったドリスコルのほうは、逆にメスを奪うために暴力もためらわない野獣と化していく。
檻から解き放たれたドリスコルとコングという二匹の野獣の暴走の前にニューヨーク市民はなすすべもなく踏みにじられていくわけです。
なんか、そういう解釈ができませんか?
投稿: 東部戦線 | 2005/12/27 22:39
東部戦線 さま
ドリスコルの野生化は、確かにスゴい物がありますよねぇ。十人以上の荒くれ共が殆ど全滅するようなスカル島の自然の中を、勇躍ひとりで突破して、コング族の砦から殺人コウモリにぶら下がって脱出、お前本当は、ランボーとかメイトリクスとかいう名前なんじゃねーかという大活躍。
ここは少々不満があって、「ふふん、アレは肉食昆虫の巨大なものだから、習性として××に弱い筈だ」「いくら巨大だとは云え、は虫類は○○に引きつけられる筈だ」みたいな雑学的な知恵で自然の驚異をクリアしてもらいたかったんだが、そういう描写は余りなく、殆ど、少々腕力に欠けるターザンみたいな描写になっているんですよね。
もうちっと、ドリスコルを機転の人にしてもらいたかった気はします。でも、アメリカの映画ファンの多くは、こういう、体力任せで無茶を乗り切る主人公が好きなのかもネェ。
イエローキャブのチェイスとかも前半に、たとえばドリスコルがカーレースとか映画のカースタントとかが大好きで、現場に足も運ぶ人物であるように会話の端で振ってあれば、良いんですが、急に何でも出来る人になってて、観客としてはちょっと置いてけぼりを喰らうかも。
ま、そんな置いてけぼりを観ている最中に感じさせない(感じている暇がない)だけの迫力はあるんですがね。
投稿: 神北恵太 | 2005/12/27 23:54