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2006/03/05

エイシングだぞ

 前エントリで報じたように、『機動戦士Ζガンダム劇場版』三部作のラストを飾る『機動戦士ΖガンダムIII 星の鼓動は愛』を、さいたま新都心のMOVIXさいたまで、2006年3月4日14時からの、舞台挨拶のある回で観て来た。上映ホールはこのシネコン最大の収容人数を誇る11番ホール。舞台挨拶は、この回の上映終了後と、次の回の上映前に行なわれる。挨拶に来られた富野由悠季監督をはじめ、声優さん達も、飛田展男さん(カミーユ=ビダン)・島田敏さん(パプテマス=シロッコ)・新井里美さん(ファ=ユイリィ)・古谷徹さん(アムロ=レイ)・池田秀一さん(シャア=アスナブル)の5人(キャストの並びはエンドロール順)にお越し戴き、15分少々かな、「アァ、終わりましたねぇ」というようなお話し。ほとんどが20年前のテレビからの流れのキャストに混じり、松岡美幸さんからバトンタッチを受けた新井里美さんが、いい感じに20年選手のベテラン陣に溶け込んでいて好感。

 さて、肝腎の『ΖIII』だが、ここに到り、ニュートランスレーションの凄みが極まったという感じだった。
 映画の感想や新訳の解釈については、今週金曜日に最終第12巻の出る『機動戦士Ζガンダムヒストリカ』に譲るとして、今回はこの映画で脚光を浴びた言葉、エイジングについて話してみたい。

 昨年、Ζヒストリカに関わらせていただいた所為もあって、この映画が、『I』『II』『III』と毎回、その産みの苦しみに喘いでいたのはよく知っているが、今回、特に際立って見えたのが、新作カットの美麗化と、エイジングの進歩だと思う。
 今回、20年前のテレビではまだ随分いい加減だったブリッジ等の表示系の描写や簡易な明色線や頑張っても透過光止まりだったビーム等のCG再作画等、細 部への気配りが行き届いていて、よく知ったシーン、なんでもない会話部分が、いつの間にか拡充され、グレードアップされている。この細かいブラッシュ アップの積み重ねのお蔭で、物語は20年の古色を落とし、新しい衣を纏った。

 そんなことに何の意味があるのかという御仁もあろう。実は、神北自身最初はそう思った。全てそのまま見せるか、全て一から新作を作った方が良いの ではないかと。しかし、そうではないことは、この三部作を見ればすぐに判る。

 まず、カミーユも、クワトロ(シャア)も、シロッコもハマーンも、その他諸々のキャラクター達も、その根は全て20年前にある。キャラの印象、意匠、配置、行動、台詞回し。それ等は、すべて、20年前のキャラクター設定に基づいている。もし、これが完全新作でリメイクされた映画であれば、彼等はその根を失い、新たなよりどころを一から作りなおさなければならない。しかし、そうなっては、既に『Ζガンダム』ではあり得ない。これがまず前提としてあったと思う。
 一方、アニメとは記号論であるという目で見れば、今の絵で観せるということは、今の観客に最も伝わりよくするということなのだ。古典文学の現代語訳と同じで、記号の解読を容易にすることは、理解を高速化するものだ。そして理解が早ければ、感情移入の度合いを深められる。

 『Ζガンダム』は同じような地球犬規模の戦闘を扱ってはいるが、前作『ガンダム』と比べると非常に小規模な話だ。別に国と国が覇権をかけて争う訳ではない。歴史的に言えば、大戦争の後の軍縮時代に利権を守りたい軍部の一派が、無理矢理に仮想敵を作るために政治に介入し、それに反対する一派との間に起こった派閥争いの激化したものに、2〜3の外部要素が加わったに過ぎない。この闘いは本来、(万が一、億が一、規模的には非常に小さなアクシズ軍が周りの軍勢全てをなぎ倒して完全勝利を収めない限り)、誰が勝とうが地球連邦という政体が崩れることはない。

 しかし、いろいろな偶然からその中核に引き込まれてしまった天才少年パイロット、カミーユにとっては、それが全てであり、この内乱を終わらせないことには、全てが先へと進めない。
 だからこそカミーユは、他に生きる術や選択肢を持つ大人達より、遥かに真剣に、真摯に、一途に、この時代を生き、出来る限りのことをしようと奮闘する。

 だから、一年戦争という歴史的事件を、一例としてアムロという切り口で切り取った『ガンダム』と違い、『Ζガンダム』はカミーユの物語である。それ以外ではあり得ない。試しに考えてみて欲しい、この物語を誰か別の人物の視線で追って、ここまで深く描くことが可能かどうかを。それほどカミーユ=ビダンとは、このお話しと不可分の主人公なのだ。
 まあ、威張れたものではなくって、私も20年目にして今回、この『星の鼓動は愛』を観て、ようやくこの事実に思い至った訳だが、そうしてカミーユと同化して観ると、今回の映画の疾走感も重さも開放感も、全て、そういうカミーユに感情移入した観客のためにあるのだと気付かされる。

 そのため、如何にカミーユへと視聴者・観客が同化して行けるかが、作品最大の分水嶺となる。気持ちの同化を容易にするため、つまり、記号解釈の高速化を促すために、現代の観客に対する現代のエイジングは、作品の成り立ち上、極めて重要な意味を持っている。

 その美麗さに、是非触れてみていただきたい。

 前作を未見の方でも大丈夫、既に発売されている前二作のDVDは、絶賛発売中だ。会社帰りにコンビニでDVDを買って、今日は『星を継ぐ者』明日は『恋人たち』と2日連続で予習すれば、3日目にはレイトショウの大スクリーンで、あなたもカミーユ=ビダンを体験する。

 是非。是非。

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コメント

カミーユ物語!ですよね~!!

実は、中学3年にZを見て、物凄く嵌りました。

おかげで、カミーユが廃人になったことは、その後の私の人生をかなり左右してしまいました。

しかし、ガンダム好きの後輩からZZでカミーユが復活するという話を聞いて、ZZを見たのは34歳の時です、ZZ放映から実に17~8年後です。
カミーユが復活した姿(浜辺でファと・・・)を見て、私の心から何か1つ、説明のつかない何かが開放されました。

そして、20年の刻を越えて、Zが映画化。

MSなどのマシンキャラに傾注させない、登場人物に重きを置くZの魅力は素晴らしい。

私が、HNをアーガマとするのも、登場人物の戦闘基地であり、家でもある、唯一の生活の場としてのアーガマの魅力に取り付かれていることに他ならないのです。

さて、第3部・・・仕事サボって見てくるかな。

投稿: アーガマ | 2006/03/06 10:51

アーガマ さま

 一年間放映されたテレビアニメを、90分少々の映画たった3本に纏めるのですから、今回の劇場版はどうしても、群像劇を切り捨てて、主人公のカミーユ=ビダンその一点に集中し、カミーユを通して周囲を眺めることになります。
 このためワリを喰ったのは、ダカールが描かれないため演説の機会を失ったシャアなどですが、それでもシャアは、端々で、後のネオ・ジオン総帥へと歩む男の片鱗を覗かせています。
 出来得れば、何度も何度も、丁寧に端から端まで観ていただきたい。いろんな発見がありますよ。

投稿: 神北恵太 | 2006/03/06 11:14

 シャアがネオ・ジオン総帥へ順調に歩みだしたとしても、アムロとシャアの最終決着・・・は、つけられないんじゃないでしょうか。
 なんか、分別有る大人になった天才パイロット「カミーユ・ビダン」さん 23歳が、『あんた等は間違ってる!』っと全力で阻止しそうじゃぁないですか。
 (ΖΖの主人公は、木星から戻ってきてないので阻止はできないそうですが・・・)

投稿: うじthe駄目~ん | 2006/03/07 23:10

うじthe駄目〜ん さま

 じつは、神北の『シャア逆』最大の不満点は、「お馬さんパカハカ」の時に、横から飛び出して来た有意の青年ビダンくんが、「こんな時にあんた等、何やってんです!」と怒らなかったことなので、それは願ったり叶ったり。(^_^;)

投稿: 神北恵太 | 2006/03/08 07:35

 >> それは願ったり叶ったり
 それじゃぁ、次は「新訳:逆襲のシャア」でしょう?
 (ラブラブ・カミ子さんになったので、明るいガンダム=ΖΖが復活は、無くなったということで・・・順当にいけば、劇場版Vガンダムなんですが)

投稿: うじthe駄目~ん | 2006/03/08 12:55

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