酋長の訃報が届いたぞ
たった1ヶ月前の2006年4月13日、来日し、千葉マリンスタジアムでロッテ・ソフトバンク戦の始球式で投げておられるから、最後まで健康に過ごされたのだと思う。
ちなみに、彼の移籍した先の高橋ユニオンズ(トンボ鉛筆と業務提携した1955年だけトンボユニオンズ)は、彼の引退後の1957年オフに、大映スターズと合併して1958年から大映ユニオンズとなる。さらに、相沢さんのもう一つの古巣、毎日オリオンズと合併(現在、球団史としてはオリオンズ系の記録を採用し、ユニオンズ系の記録は傍系扱いとしされているらしい。)して大毎オリオンズ、そして、1966年に東京オリオンズ、1969年にロッテオリオンズと名を変え、1991年に千葉ロッテマリーンズとなって今に繋がるチーム。オリオンズ・ユニオンズの2チームの先輩である相沢さんは、誰よりも始球式に相応しい人の一人だったのだろう。
神北は全く野球は詳しくないし、相沢さんの選手としての記録が、当時の選手としてどうなのかなんて全く読めない。だが、戦前、日本が南方圏に委任 統治領を持っていた時代に、海外雄飛した日本人と現地の女性との家庭に生まれ、終戦時に父に連れられて日本に帰国、やがてプロ野球の選手として活躍の後、 母の住むチューク島に戻ってその土地に溶け込んで暮らした。そこに、太平洋戦争が広い範囲に及ぼした影響のスゴさを感じるし、戦前、あまり正確でない教育 のせいもあって多くの人は随分とカンチガイをしていたものの、それでも希有壮大に世界に飛び出して行った日本人たちの息吹も感じる。相沢さんは、それ等を 今に伝える人だったと思う。
ご冥福を御祈りする。
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