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2006/08/01

『ゲド戦記』を観たぞ

 2006年8月1日映画の日。昨年12月の開幕以来、『「ゲド戦記」制作日誌』『「ゲド戦記」監督日誌』という二つのブログを読み、随分長くその製作過程に付き合って来たスタジオ・ジブリのアニメ映画『ゲド戦記』を観た。

 面白かった。

 前作『ハウルの動く城』の、ストーリーの軸も、対立構造も、向かうべき目標も見えて来ず、何が描きたいのかよく判らなかった感覚と違い、非常に見通しが良い。
 自然と画面から浮かび上がって来る「バランス」と「和解」と「越えてはならない一線」という3つのテーマが、幾重にもメタファをちりばめて語られている。だが、テーマの深遠さはあっても難解さはない。明朗快活、意気軒昂。少年に勇気、少女に愛。まさに古き良き東映動画のまんが映画を彷彿とさせる、非常に前向きな作品である。

 お話は、シンブル。

 世界は壊れかけていた。古来の魔法は薄れ、人身は倦み悪心を抱き、人界の外に暮らす筈の竜が人の目に触れるところを飛び回りはじめた。
 エンラッドの王子アレンは、父王を殺して出奔、荒野を彷徨った果てに不毛の砂丘地帯で餓狼の群にとり囲まれ、死を決意した。「お前達が、私の死か!」しかし、そこに救いの手が差し伸べられる。旅の魔法使いハイタカである。
 ハイタカに誘われるまま旅の連れとなったアレンは、2人で旅を続け、少し、落ち着きを取り戻しつつあった。やがて2人は幾つもの見捨てられた廃村を通り抜け、巨大な港町ホート・タウンへと至る。
 ホートタウン。そこは、繁栄と悪徳の街であった。たしかに大きな商業都市ではあったが、きらびやかに商品を並べる店が軒を連ねる裏路地には、ハジアと呼ばれる麻薬に心身を蝕まれて生ける屍のごとくなった中毒患者達が群をなしている。そして、奴隷の売買が行なわれる悪徳の街でもあった。
 ハイタカと別れ、ひとり街の中を歩いていたアレンは、偶然に奴隷商人の人狩り隊に教われている少女テルーを救う。しかし、それは人狩り隊の隊長のウサギから恨みを買う切っ掛けにもなった。夕闇の迫る頃、アレンは手勢を集めて戻って来たウサギによって完膚なきまでに叩きのめされたアレンは、身ぐるみを剥がれ、枷をはめられて奴隷運搬車に詰め込まれる。
 再び、アレンを救ったのはハイタカだった。ハイタカは、傷付いたアレンの身を案じ、近くに暮らす幼なじみのテナーを訪ねる。何の縁か、テナーは、昼間アレンの助けた少女テルーの養い親であった。
 しかし、幼い頃に両親に捨てられたと言う傷付いたテルーの心は、自分を救うためとはいえ、人狩り隊を打擲したアレンの凶暴性を恐れ、頑に距離を取る。アレンとハイタカは、テナーに請われ、畑仕事を手伝う。牛に引かせた鋤を無心に押さえる作業を続けるが、テルーはなかなか彼に心を開かない。アレンは、テルーが夕闇の中、家の後背にある牧草地で美しい歌を歌っているのを聴き、突然、彼女の深い悲しみと苦悩の一端を知り、知らず涙を流してしまう。それを観たテルーは、木石でも鬼神でもなく、アレンもまた自分と同じように苦悩する人なのだと、やっと彼を理解する。
 アレンの馬を借りて街にものを調べに出たハイタカは、刀剣商で、人狩り隊が奪って捨てたアレンの刀を探し出して買い戻した。ハイタカは、大昔、袂を分かった宿敵クモがこの街にいて、奴隷商人達を牛耳って悪徳の限りを尽くしている事を知る。
 同じ頃、アレンは、1人、荒野に彷徨い出て、自らの心の負の部分が凝り固まった「影」に襲われていた。倒されたアレンを拾いに来たのは、クモであった。クモはアレンを城に連れ帰り、怪しげな薬を使って真の名を訊き出し、自らの操り人形に仕立てて、ハイタカの登場を待った。
 ハイタカを呼び寄せるためのクモの策は既に動いていた。ウサギたち人狩り隊がテナーをかどわかし、ハイタカがクモの城を訪ねるようにと、縛り上げたテルーに言い残した。
 戒めを解き、人狩り隊を追って走っていたテルーは、戻って来たハイタカと出会い、事の次第を伝える。ハイタカは彼女に家で待っているようにいい、アレンの剣を託す。しかし、テルーは、待っている事は出来ない。養い親テナーを求め、夜の道を歩き出す。道が分かれるところで、テルーはアレンの姿を見つける。アレンは、ある方向を指で指し示し、テルーを先導する。やがてテルーは、クモの城へと到着する。
 城の入り口まで先導して来たアレンは、自分はここから先には行けないといい、テルーに自分の真の名を告げて消えてしまう。それはアレンの恐れていた「影」ではなかった。弱い心、醜い心、凶暴な心の「影」は、さきの争いで、アレンの中に入り、正常なアレンの方が身体のはじき出されていたのだ。
 少女テルーはただひとり、敵の城へ潜入する。……

 世界のバランス、自然のバランス、人の世界のバランス、社会のバランス、欲と誠意のバランス、そしてアレンの心の中の光と影のバランス。
 自然との和解、竜たち(の世界と人の世界)との和解、人と人の和解、欲と誠意の和解、そしてアレンの心の中の光と影の和解。
 破滅に向けての一線、人として越えてはならない一線、欲と誠意の一線、そしてアレンの心の中の光と影の一線。

 多くのものが多重にちりばめられ、相互に影響し合いながら共棲している。その中で、少年と少女が出会い、引かれ合い、ともに手を携えて困難を突破する。基本である。そして王道である。わくわくするではないか。嬉しいではないか。

 しかし、世界は誰かが誰かを倒したからと言って、一朝一夕にして根本から変わる事はない。世界は続いて行く。無論、彼らの戦いも、場所を変え、時を変え、果てる事なく続いて行くのだ。だからこそ、少年は旅立ち、少女は再会を胸に見送る。

 ちゃんと始まり、ちゃんとスペクタクルして、ちゃんと終わる。そして制作者が込めたテーマがストレートに伝わって来る。つまりなかなか良い映画である。

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コメント

でも第一作が見たいワタクシ。
きっとハリポタと比べられるのがやだったんだろうなあ。

投稿: 大外郎 | 2006/08/01 18:01

大外郎 さま

 宮崎吾郎監督がやりたかったのは、きっとハリポタのように原作をなぞる事ではなく、アニメ作品として独立した、ちゃんとコンパクトにまとめたお話だったっぽいよね。

 ハリポタ式(タナボタ式みたいだ(^_^;))に連作でやろうとしたら、少なくとも5〜6年、ジブリが他のアニメを作っている時間が無くなってしまうから、鈴木プロデューサにしても、その決断は出来ないと思うしなぁ。

投稿: 神北恵太 | 2006/08/02 05:16

珍しくヨメが見に行こうというので、二人で見てくるつもりでいます。そんなわけで、青い色付きの部分は読み飛ばしました。
続々と見ている友人たちの批評も賛否両論色々とあるようですが、神北様の感想を読んで安心しました。
出来るだけいいものを厳選しておかないと、ひっくるめて「SFって面白くない」と言われちゃうんですよ。(ゲド戦記がSFであるか否かは別の問題として。^^;)

投稿: まっち | 2006/08/03 11:38

まっち さま

 是非、お楽しみ下さい。
 とにかく、テルーの歌が耳に残って耳に残って、そりゃ凄いですよ。

投稿: 神北恵太 | 2006/08/03 15:40

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