ふたつの裁判について考えたぞ
ふたつの裁判を注目していた。
一つは、奈良地裁の有山楓(かえで)ちゃん誘拐殺害事件の小林薫被告(37)の判決公判。もう一つは、東京地裁の1978年前に東京都足立区の区立小学校教師石川千佳子さんを職場で殺し自宅の床下に24年間埋め隠していた警備員の男(70)や職場の安全を確保出来なかった足立区に、遺族3人が約1億8600万円の損害賠償を求めた訴訟の判決。
結局、小林薫は、予想通り死刑が確定した。
東京の民事訴訟は、「区には職員の生命などに具体的な危険が生じていることは認識できなかった」ということで、元犯人のみに対し、「遺族が故人を弔う機会を奪い、故人に対する敬愛・追慕の情を著しく侵害した」として計330万円の賠償のみを命じた。「殺害と遺体の隠匿は一連の不法行為で、除斥期間の始まりは遺体発見時とすべきだ」という遺族側の主張は認められなかった。
■小林薫の死刑判決■
奈良の小林薫は、死刑である。日本の刑法では一番重い罰である。4人眷属殺人の永山則夫の事件の時に最高裁判決が示した死刑選択の基準、世に言う永山基準では……、
〈1〉犯行の罪質
〈2〉動機
〈3〉殺害方法の残虐性
〈4〉被害者の数など結果の重大性
〈5〉遺族の被害感情
〈6〉社会的影響
〈7〉犯人の年齢
〈8〉前科
〈9〉犯行後の情状
——で、罪刑均衡や一般予防の見地から、やむを得ない場合だけ死刑が許される
……としている。だから、1人殺した殺人犯への死刑判決は、異例に思い罪だと言えなくもない。しかし本来この永山基準、宮崎勤事件やこの楓ちゃん誘拐殺害事件のように、昨今、日本でも見られるようになった快楽殺人にまで直截に当て嵌められるモノではないと、神北は思う。
全くの身勝手でこの事件を起こし、警察に捕まってからも反省悔恨の弁ひとつ無く「さっさと死刑にしてくれ」と言うこの手の男に、のぞみ通りに死刑というのはなんとも刑罰として足りていない気がする。たとえ「さっさと死刑に」というのが獄中での精一杯の虚勢だったとしてもだ。
こういう事件や死刑執行の報道でいつも思うのは、そろそろ無期刑と終身刑を別けても良いのではないかと言うこと。
もちろん、それは刑法と言う法体系の根幹をいじる事なので、慎重の上に慎重を重ねた議論を尽くしてからの事だが。
■足立区の殺人犯への損害賠償■
この事件は、酷い。犯人は、1978年職場でぶつかった事で女性教師と口論になり、被害者の口を塞いで殺した……と言っているが、口を塞いだぐらいで人は死なない。どう考えてみても、首を絞めたとしか考えられない。で、そのまま死体を自宅に運び込み、妻のいないうちに床下を1メートル掘って埋め、何喰わぬ顔で生活していた。
事件が公になったのは、2004年にこの自宅が、区画整理事業に引っかかり、取り壊される事になったので、遺体が掘り出されて発覚する前に、綾瀬署に自首したのだ。とはいえ、事件から既に26年経っており、殺人罪は時効で問われなかった。
読売ONLINEの2006年9月26日の記事『女性教諭殺害を26年後に自供、男に330万賠償命令』では、以下のようにこの裁判の争点と結果を書いていた。
訴訟では、不法行為から20年がたつと賠償請求が出来なくなる「除斥期間」が適用されるかどうかが争点となった。遺族側は、「殺害と遺体の隠匿は一連の不法行為で、除斥期間の始まりは遺体発見時とすべきだ」と主張していた。
これに対し、判決は、殺人については「除斥期間の始まりを遅らせることは出来ない」と指摘。その一方で、遺体の隠匿については、「一つの意思に貫かれた権利侵害行為の継続であり、遺体発見時を除斥期間の始まりとすべきだ」と、柔軟な解釈を示し、男の不法行為責任を認めた。
既に犯人が20年以上逃げ切っていたので、刑法としては罪を問えない。しかし、民放裁判としては、相手が無ければ訴える訳にも行かないだろう?
相手が判明した所からのスタートにならないというのは、なにか変な気もする。
しかし、遺体の隠匿に関しては、わずか330万円。北朝鮮の工作員による拉致ではないかと、特定失踪者問題調査会に登録する等、あらゆる手を尽くして、延々と探し続け待ち続けた家族の28年(26年とそれからの2年)に対し、1年分が12万円弱と考えるといかにも小額。とは言え、なんとか、犯人に権利侵害の継続があったと裁判所が判断した事は、一歩前進でもあると思う。
しかし、こういう件は、人命を奪う殺人事件などに対し時効があるのはおかしいとして、今現在も一部刑事事件の時効を撤廃すべきとの議論が続いていること等とともに、まだまだ考えるべき事柄であり、度々顧みるべき事例だと思う。
かくして、快楽殺人に対する刑罰と時効事件による被害に対する損害賠償というなかなか複雑な構造をした事件の判決に関し、法が後手後手に回っている印象の現状に対する憤りとか、その中で公正かつ後の正義のよりどころとなるべき判決を導き出そうとした裁判官の判断とか、2つの地方裁判所の判決は、いろいろ考えさせられる裁判だと思う。
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コメント
刑法は基本的に明治の初めに出来てますからね、言わば制度疲労ですよ。
時効とか懲役の最高刑といったものが、当時は一生に相当するとされていたからだそうで、裁判員制度を入れるのなら刑法の全面改正も視野に入れないとまずいよという声もあります。
ところで、奈良地裁の法廷のテレビ画面では判事席が9人掛けでしたね。
裁判員裁判対応の法廷だったわけで、これからはおなじみになるとは思いますが、ちょっと驚きました。
投稿: 酔うぞ | 2006/09/27 00:13
終身刑もそうなんですが
こういう犯罪に関しては、いっそ「晒す」とかの刑罰もありかなとも思います。
悪いことしたら見せ物にされるとかの方が、抑止効果高いんじゃないかなあ?
投稿: 大外郎 | 2006/09/27 02:29
酔うぞ さま
制度疲労。その通りなのでしょうね。さすがに明治の頭と今では、人間の寿命も違えば、社会構造に至ってはもう無茶苦茶でごじゃりますがな状態です。
ここいらへんで、「人間五十年」時代とは違う、現代の人間に合わせた法律に作り直す要は、多いにあると思います。
大外郎 さま
うむ。そうなのですが、この「晒す」は、難しい所だというのも解ります。現代の法律は被害者より加害者の人権を大事にする傾向を含め、犯罪者を「これから更生し、真人間になって社会に戻る人材」と考える事によって成り立ってますから、「贖罪のために刑罰として晒す」ことは、現法規下ではまず許されないんですよね。
しかし、そういう実際的なペナルティを見せつけて、快楽殺人や愉快犯が減るのなら、考えるべき所までモラルの崩壊が来ている気もします。
学校崩壊も、体罰問題視の過激化から急激に進んだ気がします。社会に不利益行動を取れば、かなり小さなサイクルでストレートに自分が痛い目に会うという、判り易い因果応報が、今一番必要なのかも知れません。
投稿: 神北恵太 | 2006/09/27 02:46