キョンシー仙女だぞ
二十年と少々前。かつて、キョンシー・ブームというものがあった。サモ・ハン・キンポー製作の1985年の香港映画『霊幻道士(原題:殭屍先生)』を皮切りに、大量に映画やテレビ番組が作られ、すっかり中国道教の彷徨う死体「殭屍」は最もポピュラーな中国の怪異となった。手足が硬直して曲がり難くなるので、手を前に伸ばして直立したままでぴょんぴょん跳ねて来る(もしくは浮かんだまますい〜〜……と飛んで来る)という判り易いビジュアル性が、(子供達がゴッコ遊びをし易い)判り易さに繋がり、清朝時代の中国における正装である満州族の帽子と服を身に着けているという服装的な判り易さが良かったのだろう。経帷子にずきんの白装束で両手を前にかかげ、手の平をだらりと垂らす日本の伝統的な幽霊像と同じように「これは死んだ人間の怪異だ」と判り易いところが、日本でも受けた要因だと思う。
しかし、唯一違うのは、日本の幽霊は、霊魂が生前の姿を取ったものだが、中国の「殭屍」は、まだ形をとどめている死体に魂魄のうち「魄」が残って、土に帰ることなく動き回ると云うことである。
さて、そのブームが過ぎ去って15年以上。もはや、そんなブームなんて知らずに育った世代を対象としたキョンシー・マンガが突然現れた。『キョンシー仙女』鳥居大介(ソフトバンククリエイティブ ¥560+税)だ。
鳥居大介くんは、2003年の日本SF大会 T-con2003 とちぎSFファン合宿 の時に、2ヶ月に一度ずつ、SFマガジンの大会の広報ページに美麗イラストを書いてくれた友人。彼の描く少年少女は可愛い。
鬼灯碧人(ほおずきあおと)が人気番組『どれでも鑑定隊!』に出したお宝「20年前に祖父が中国で、飯をおごった礼にもらった棺桶」の中には、美少女が 眠っていた。しかし、その棺は箱根細工のような特殊な仕掛けが施されており、少なくともソアが入手してからの20年間、誰も開けたことのない開かずの箱 だったのだ。碧人は番組を茶化すために馬鹿なイタズラをした少年としてこっぴどく怒られ、眠っていた美少女も詰問される。
だが、その美少女はとんでもない怪力で逆にスタッフをねじり上げ、セットを壊し、暴れ回った挙げ句に突然倒れた。
テレビ局から追い出された碧人は、少女を背負って家に帰る。少女の名は春愛(ちゅんあい)。普段は大人しい、おっとりとした女の子だが、艦上が一定以上に高ぶると凶悪なキョンシーとなって暴れ回る。
しかし、鬼灯家の夕食時に突然暴れ出した春愛の前に立つ一人の少女。それは、蓮花と名乗る、春愛の親友だった。
仙女を目指して修行していた筈の中国の美少女2人が、普通の高校生のところに居候する。言ってしまえば「異界から落ちて来た美少女が偶然少年と同居する」煩悩全開の「落ちモノ」である。
しかし、発表誌の年齢傾向とか規制コードとか、いろんな要素に拠るのかも知れないが、ちょっと設定が生きていない。お話しのスジはそこそこに良いのだが、マンガとしてのコマの送りとか動きとか、そういったものが今イチセンスが悪い。
そりゃ、鳥居くんは漫画家になろうとしてマンガを描き続けて来たマンガ小僧というよりは、イラストレーターとして出て来た人で、確かに動きのある絵を描
くんだが、どこまでマンガとして上手くそれをこなしているかと云うと、ちょっと今のところ心許ない。コマとコマが、きっちりそれぞれ一枚の絵として出来す
ぎていて、つながりが薄いのだ。
小説の挿絵ならそれでも良いのだろうが、マンガとしては、なんだか、学童用マンガのような印象が残る。
だからなのか、お話しは成り立っているし、キャラも立っていて、描き分けもきっちり出来て非常に読み易いのに、問題ないように見えつつも、なんだかストーリーラインがブツブツとコマごとに止まってしまう。
多分、今の鳥居くんの洗練された絵柄は、デビュー当時の高橋留美子よりも(もちろん30年分今風であり)洗練されて上手いのではないかと思う。が、マンガとして『勝手なやつら』と『キョンシー仙女』を較べると、全く格が違う。マンガとして太刀打ち出来ていない。
絵の上手い下手、お話しの上手い下手とは別に、マンガの文脈というものがあって、それを掴みかねているのだろうか?
ただ、神北の読解力では、それがどこだと明確に見えて来ないのが、なんとももどかしい。
どなたか、マンガ史とかマンガ文脈論の中で『キョンシー仙女』の位置付けや問題点を読み解いてはくれまいか。
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