DAICON7 レポートだぞ
DAICON7に送られている筈の、シール企画の冊子型台紙が、今になって不具合があって刷り直しになったと聞かされたのは、2008年8月21日(木:大会二日前)の、夕刻のこと。
この時点で、印刷のやり直しを行い、製本し、大阪に送るために運送会社に依頼するのは、時間的に無理。せめて夜の内に作って、22日には手渡せるようにする……というのが印刷屋さんが無理をして出してくれた結論。併せて、東京駅まで持って行きますよという話。
池田君に連絡を取り、確認。スーベニールの袋詰めは23日午後の予定だと云う話を貰う。昼といっても、12時丁度から始めるというワケではないから、
10時か11時に東京駅で受取、望みで2時間半で新大阪。そこから1時間チョイ見て、最短で2時か3時になりそうだが良いかという話を確認。「んー」と唸
られた後、「わかりました。じゃ、それで」と云われる。22日夕方一緒に訪阪する予定だった女房に、事情を話し、神北が先行したい旨を伝え、了承を貰うと
ともに、我が家にある最大のコロコロ(荷物キャリア)と同じものを買って来てもらう。ハンドキャリー作戦だ。
この確認と、その後の大雨で、この日も星雲賞の賞状を刷りに行けなかった。この木曜日の深夜に、車で荷物を運ぶ塩坂君が家までパソコンを取りに来てくれる予定だから、明日、その場でエラーが出たら、星雲賞の賞状が刷れないことになる。
星雲賞の賞状のファイルは、Adobe Illustrator CS3
形式のデータで、安全性を取ってフォントはアウトラインを取っているので、文面にエラーが見つかっても編集は出来ない。最悪の状態をいくつかの方法で避け
るため、まずは、アウトラインを取る前のデータをDVD-Rに焼いたものを、第一の策として荷物に入れる。次に、最悪、22日(金:大会前日)夕刻か23
日(土:大会一日目)に大阪市内の出力センターで出力できるように、大阪市内~関空の出力センター関係を、ネットで検索、良さげな店をピックアップしよう
とぐぐる。
ところが、産業構造が違うのか、東京だとデータを紙に落とす出力センターが山のように出てくるのに、大阪だと、カッティングシートに好きなデザインを切り出す系統の出力をしてくれる塗装屋が、多く出て来る。
出版・広告関係の産業がいかに東京に多いか判るが、判っても嬉しくない。取り敢えずキンコーズなどを調べだしておく。
深夜、塩坂君到着。本来は古市くん・山田くんが同乗の予定だったが、古市くんと、これまた別ルートの飛行機をキャンセルした安達くんが、新幹線ハンド
キャリー作戦に参加してくれることになったので、山田くんと二人旅だと云う。荷物にも余裕があるというので、我が家のプリンタを運んで行ってもらうことに
する。徹底的に微調整して、葉書サイズのシール用紙を1歯(1/4ミリ)もあやまたずに打てるようにセッティングしたiMacとMP950の組み合わせで
ある。この判断は当日、功を奏した。
しかし、降り出した雨の当たる中、見送ろうと待っている神北夫婦と一人だけ先に助手席に座るのもどうかと待っている山田くんの前で、おもむろにMixiのエコーを始めるのはどうか? (^_^;)
なんとか塩坂ノワール号を送り出した後、最後の情報収集を済ませ、とにかく寝る。
前日
翌朝、6時に起床。データと賞状を運ぶための画板(大判書類ケース)を持ち、自分の荷物を背負って出発。
7時に神田到着。神田のリスマチック東京で印刷をお願いする。ここは24時間動いているので心強い。印刷待ちの間に松屋でメシを食い、リスマチックに戻って待ち合いのソファーでじっと待つ。9時頃、神北がリスマチックから動き出すのが少々遅れても、最速10時に東京駅に持って来てもらう冊子型台紙を受けつれるように、古市くんの位置を確認。10時に東京駅まで行ってもらうようにお願い。
9時少し前に上がったので確認。パラパラと見る分にちゃんと刷れているので大丈夫だとは思ったが、再度確認。日本長編部門、日本短編部門、海外長編部門(著者)、海外長編部門(訳者)……と順に並べていて見る。……と、あれれ、日本短編部門が無くて、代わりに海外短編部門が2枚あるぞ……。
結局これは、InDesignかなんかにIllustratorデータを割り付けて、一続きに印刷させようとして、間違って同じものを2回割り付けてしまったものと判った。追加で日本短編部門も無事出力される。9時過ぎ、星雲賞賞状印刷のミッションクリア。あとは運ぶまでだ。
急いで東京駅に移動し、とりあえず印刷屋さんに連絡。なんか、トラブっていてまだ上がっていないと云われる。とすると、何分ぐらいで出来るのかと聞くと、返答がごニョゴニョと怪しい。普段、こういう時に男前な返答をくれる印刷屋さんだから、なんか異常事態が起こっているのだとは判った。
とにかく待ちに入る。
10時ちょっと過ぎ、お互いの位置を認識し間違いすれ違いつつも古市くん合流。11時過ぎ、ヒロこと安達君合流。喫茶店で時間をつぶし、電話をかけてみると、ようやく仕上がり、移動開始と判る。昼メシを食い、連絡を取ってみると、ちょうど東京駅八重洲口まで来て頂いたところ。荷は、手で持つとなるとなかなかの大荷物だが、このハンドキャリー作戦のために持って行ったコロコロなら大したコト無い量。4箱というのでみかん箱4箱クラスと思っていたら、桃の一段箱4箱程度だった。
とはいえ、神北・安達・古市の3人で2台のキャリアと手荷物担当に分けられるから笑って運べるのであって、一人だったらちょっと泣きたい量だった。
早速新幹線に乗り、13時過ぎに一路新大阪へ。
新大阪からJR東海道本線で大阪、JR大阪環状線に乗換えて新今宮、南海電鉄で岸和田へ、17時前に到着。岸和田駅からは、タクシーで会場の楽屋口に乗り付ける。
だが、既にスーベニールの袋詰めは終わっており、「明日、スーベニールと共に手渡しします」という。
「しかし、それでは無駄が多い。先に袋に入れた方が早い。こちらの人員で入れても良いが」と提案。
「今からその作業は大変でしょう」と云われるが、ゼロコンで既に組上げた2000人分のスーベニールに、入れ損ないのペラ紙を入れるために2度もひっくり返した身としては、1000そこそこなら、無理な数字とは思えない。
スーベニール袋を箱から出し、冊子型台紙をヒョイと放り込み、終了した分の箱に詰め直す。冊子型台紙は、葉書程度の小ささなので、シーチング綿のエコバッグの間口の広さなら1袋15秒として1分に4袋、一人が100袋こなすのに約30分というところか。事前申込者が1000人を超えており、当日参加者が200~300人は堅いとして、余裕を見て1500人分を作ることにしても、シール企画から割ける5人で1時間半。ダイコン7から手の空いている人を何人か借りられれば、10人で45分。大変じゃないとは云わないが、無理な仕事でもない。
しかし、担当の安達くるみ女史の判断は、「やらない」だった。
実際、ダイコン7には、在阪のSF研から大量の学生さんたちが導入されているので、フレッシュな人材に溢れていた。既に翌朝の人員割り振りも出来ていたのだろう。そういうことなら、もはや我々が口を挟む余地はない。後はダイコン7の差配にお任せして、シール企画の設営に向かう。
シール企画の場所は、前に下見で決定した食の交流室(お料理教室とかが出来る、いわゆる家庭科室みたいな施設。食器棚で仕切る形で厨房ゾーンとテーブルゾーンに別れていて、調理し、それをみんなで食べることが出来る。もっとも収容人数でいうと小中学校の40~50人入れる家庭科室と比べると、半分かもうちょっと少ない感じの小型版)の前。ここは、それより奥が裏動線しかない、ドン詰まりの廊下で、SEALSが例によってのやたらと場所を食う機材を並べるにはぴったりだった。
今回はここで、シール企画と併設して、T-con 2009 の参加申込ブースを動かす。来年の大会は、シール企画の産まれた塩原温泉、ホテル・ニュー塩原。シール企画のほとんどの人材が大会スタッフを兼ねているから、シールと大会の参加申込受付が近いに越したことは無い。とはいえ、日本旅行の方が受け付けに来て頂けるので、我々がやることの大半は、そのお手伝いと賑やかし、あと、日旅の担当者がみえる前後に来た参加申込者への対応だけだ。
机や椅子を運んで来てくれたのは元時刊新聞社長の柴田君。本来は警備の武田隊長が企画局機材担当なのだが、なんでも直前にワールドコンに遊びに行ったのが祟ってか、結局、会場で実際に機材を配分しなければならないこの日になって突然「今日行けません」とメールした来たため、急遽、代打指名を受けたそうな。
資料もろくに整えられてない状態で唐突に仕事を任されて、なんとか乗り切ってみせたこの日の柴田君の活躍は、誰に聞いても褒める言葉しか聞かない。やはり、こういう突発事態に対処出来る経験豊富な人材が大会の当日を支えているんだなぁ。
本来、通常の六尺(天板が180×45センチ)10本の筈だったが、受付ブースとかに女の人が座るときを考え、スカートや足が隠れる遮蔽板付きのテーブルもあるようだったので、柴田君に頼んで3本ほどそちらに切り替えてもらう。シール作成受付ブース・引き渡しブースに各1本と、T-con 2009 参加申込受付ブースに1本の、併せて3本だ。
取り敢えず、塩坂くんのノワール号で運んだ荷物、宅配便で届いた荷物の中から、必要機材を引っ張りだして、設置開始。とはいえ、iMacは、ほとんど箱から引っ張りだすだけで設置完了。USBで Time Machine 用HDDと、キーボード・マウス、プリンターを繋ぎ、竹内君から予備のメディアソケット(CFカードからマイクロSDカードまで、大小様々なメディアに対応する読み書き装置)を借りて設置。
塩坂君は、LANを調整。だが、なんだかルータの調子が悪く、LAN内は良いのだが、やたらとWANが遅い。時には繋がらない。まあ、LANが使えることが第一なのだから、取り敢えずは良しとしつつ、ネットワーク環境の整備は塩坂君に任せる。
この日の夕食は、隣接するショッピングモールのお好み焼き屋「布施風月」。
適度に夕飯を吉舎見つつ、戻って来て設営の続きと明日の確認をし、この日は終わり。
9時半過ぎに機材を食の交流室に仕舞い、施設の方に施錠して頂いて帰る。この日の宿は少し離れた泉佐野の駅近くにあるエアポートインプリンスホテル。「イン」と「ホテル」がカブっていることは、突っ込んでもいいのだろうか? もちろん、堤さんちとは、たぶん何の関係もないであろうホテル。既にほとんどの店が閉まりかけたアーケード街を抜けて、南海線で電車移動。アーケードの途中で、御崎さんを筆頭とする時間新聞社ご一行と遭遇。すでにいい具合にみなさん出来上がっていらっしゃる。なかなか良い前泊って云う感じ。
岸和田から泉佐野までは、急行を使えば電車で約8分。仕事を終えてから、18時台半ばに東海道新幹線のぞみ号に乗ったむらさきが、既に大阪・新今宮と乗り付いで南海線でこちらに向っているので、うまくすれば同じ電車か前後の電車ぐらいに乗っていて、目的地でほぼ同着となる筈。
泉佐野の駅を降りてみたが、まだむらさきは着いていなかったようなので、他のメンバーには先に行って貰い、神北は10分後ぐらいの次の急行電車を待つ。ほどなく、案の定むらさきが降りて来たので、合流してホテルへ。地図で見る限り車だまり(丸くないから、ロータリーじゃないよね)のある南口ではなく駅裏という感じのする北口側だが、府道63号線まで100メートル程度、そこを曲がって角の三菱東京UFJの隣だから、ホテルは思ったより近い。フロントに入ると、まだ先行組がフロントに居た。
取り敢えず、前泊本泊の二連泊の住処となる813号室に荷を降ろすと、同宿のSEALSメンバーで軽くブリーフィング。
ブリーフィング後、パン一切れ持って新幹線に乗ったっきり、ビール片手に出来上がったオヤジとずっとパソコンを叩き続けている仕事モードオヤジに挟まれて、車内販売の弁当も食えなかったというむらさきのメシを求めて、一緒に行こうという何人かとゾロゾロと近所のセブンイレブンに。あとで Google Map で測ってみたら、距離的にはホテルから約350メートル、たしかにホテルにも「徒歩5分」と書いてあったが、なんだか、それよりずっと遠かった気がする。なぜだ? 知らない夜道だからか?
買って帰ったものを二人でちょっくら食って、風呂はいって寝る。
そうそう、ここのバスルーム。なんか温湯、むちゃくちゃ熱くて、湯水比1対10ぐらいにしないと適温にならんのですが、大阪人って、熱い湯好き?
当日 1日目。
翌朝の目覚めは6時。朝飯は7時からだから、まだ間があるので、外の様子を伺う……。げ、パラパラと雨だ。
朝食は、可もなく不可もなく。値段相応という感じ。朝食後は、そこそこ早めに出ることにし、8時前に出発。
会場はまだオープンしていないので、楽屋口から入る。施設の方に頼んで解錠してもらい、食の交流室から資材を運び出して組み直す。この毎日組んだり解いたりが、割と大変。会場に依っては、車輪の着いたワゴンテーブルを使いテーブルごと片付けてしまうという荒技も有りだろうが、ここは普通の六尺テーブルしかない上に、室内は作り付け調理台が多く、ドアを通せても部屋の中の取り回しがちょっと大変そう。そういう荒技は諦めざるを得なかった。
まずは、前の週のコミケから参加募集を開始した、T-con 2009 の案内書表紙を、倍寸に拡大して、A4用紙4枚にプリントアウト。それを、糊付きスチレンボードに貼ってパネルにし、大会参加申込受付ブースの上に吊るした。 最初、実行委員会を通じて施設側に、ガラス面にポスターとして貼っても良いかと尋ねたところ、ガラスへの加工は、テープ・吸盤ともに不可と云われた。
そこで、天井に、パイプスペースの目隠しとして掃除機のホース程の太さの棒が並んでおり、そこに吊るすことになった。塩坂君が持って来たフック部直径4~5センチのロングのスチール製Sカンが在ったが、棒の径が思ったより太くてこれの使用は断念。そこで、昨日LANを組む時に断線していることが確認された破棄予定のLANケーブルを割いてツイストペア線を取り出し、それで棒からバネルを吊ることにした。ブースはT字路の交差点にあり、これはよく見える。
次に、このポスターから、メインの女の子、メカ、BEM、大会ロゴを抜き出して、大会参加を申し込んだ人用のシールを作成。
大会の情報が少しずつ入って来るが、この時点では主に「開場(参加者受付開始)が遅れている」というもの。昨夜、大会を手伝っている大賀女史(というのは旧姓、今は山田(ひろし)夫人である)が、ゲスト受付担当だが、ゲストリストがまだ手元に無いと言っていたので心配した通り、ゲスト受付も今のトコロ止まっているようだという情報が入る。
むー。昔々は100パーセントそうで、今も幸いまだゲストの中の一大勢力であろうファンダム出身の(ゲストになる前からSF大会に通っていたような)ゲストなら、日本SF大会が素人集団の手作りイベントであることを熟知しているから、開場寸前にどんがらがっしゃーんの一大事が勃発し受付開始が大幅に遅れたとしても、大目に見てくれることも在るだろう。しかし、全く分野違いの研究者や企業の方を幾人もお呼びしている昨今のSF大会には、大会自体がボランタリーなスタッフの手弁当運営で回っていることなど全く知らないゲストも居られる。だから、プロ中のプロである広告代理店がお金をかけて運営するイベントなどと何のウェイトも着けずに直接比較されることもある。もちろん普通、大会はゲストに対し、自分たちがどういう立場で何をしようとしており、どういう協力を仰ぎたいかを明確にするため、説明の文章を送ったり、直接会ってお話ししたりする。しかし、忙しいキーマンをお呼びする以上、会って話したことを全て覚えて貰っているとは限らないし、送った文章を全て読んで頂いているとも限らない。だから、最低限、「なんだこの酷いイベントは」にならない程度に、ちゃんとゲストをゲストとして立てたいと考える身としては、こういう状況は嬉しくないなぁ。
最近は、「ゲスト制を廃止したい。自ら売り込みのために顔を出したいプロが、参加費を払ってファンと同等の立場で参加すれば良い。何かしたい人が企画を動かす。これがプリミティブな大会だ。」という極端な論も在るが、「○○さんに会ってみたい」「また会いたい」というゲストに対する衝動が、SF大会参加のきっかけになることも多い。また神北自身、初参加のダイコン3(1981年)で読者として書物を通して知っていた幾人もの作家さんが歩いているのを見て、ただ見るだけで嬉しかった覚えがある。ゲスト制廃止論に関しては、日本SF大会の現状にもそぐわないし、そもそも前提にしているらしいアメリカの大会と現状の日本SF大会では、参加者や運営者のスキルが大きく違い(あくまでも方向性のベクトルが「違う」のであって、絶対値としての高低とか上下とかの問題ではない)、そこを無視して「ゲスト制の有無」という軸一本で論陣を張っても意味が無い。軸を無理矢理回しても全体が回らずに、軸がねじ切れてそこで終わりである。もし本当にやりたいのであれば、軸一つ回して「後は勝手について来い」式の性急な改革ではなく、SF大会全体を取り巻く状況ごと変えて行って、最終的に軸であるゲスト制がすんなり回るように仕向けるべきなのだ。
まあ、不要論はの是非は横に置こう。
とはいえ、ある瞬間ふと気がつくと、ぽつり、ぽつりと参加者がシール屋さんブースのある4階に上がってくるようになった。とはいえ、すぐに4階に人がワンさと来る訳ではない。まず参加者は、大ホールの開会式へと入っている筈である。開会式放ったらかして上に来るというのは、1コマ目に企画を抱えている人とか、ごく少数である。
そして、開会式が終わった直後から、4階に大勢がどんどんと上がって来る。シール企画も徐々にシールを作りたいという人が集まり、列に並ぶ人が増えて行く。今回は受付業務とデータ確認関係を古市くん、受け渡し業務をむらさきが主に行い。その真ん中に入ってどちらも手伝うという一番難しく忙しい役をちょまさんが努めてくれた。
各作業員への仕事の割り振りと、刷り上がったシールを渡し易いように振り分けるクラークは、安達くんと坂野くん。
今年のシール溜まりは、シール作成以来申込用紙の受付ナンバー末尾1桁を使い、0~9の10個の棚に振り分け、高速に検索&ピックアップするようにしてみた。前はナンバー順ソートとかしていたが、それよりはこちらの方が調子良いみたい。またこれには、みんなのスキルアップもあって、30分という結構最短に近い待ち時間で刷り上っているおかげでもある。刷り上がりシールがやたら大量に溜らないのだ。こういう意味でも、非情に理想的な形を作れていたのかも知れない。いや、理想というならば、古市くんとちょまさんの担当する作成依頼受付の増員がもうちょっと欲しいところだが……。
大会が動き出すと、猛烈に忙しくなる。少なくとも、神北が忙しいか、マシンとプリンタが忙しいか。へたをすると両方忙しい。シールの背景に使える版権フリー写真を大量に用意しているのだが、それの一覧なども、2007年大会をお休みしたため、約2年のうちにどこかに失われていて、大幅に作り直すこととなった。
そういえば今回、シールだ何だと仕事に熱中していて、友人が寄って来て目の前で「よお」と云ってくれるまで全く気がつかないということがいつもの年寄り多かった。遠くから手を振ってくれた友人とかをかなり見落としていたかも知れない。24インチiMacの画面の広さは非情に仕事し易いのだが、逆に視角内に占める画角が大きいため、画面の外に視線が行くことが少なくなって、今までの17インチiMacなどに比べ、没入度が高いようだ。
友人がMixiで公開している写真にも、何枚か作業中の自分の姿が写っているが、全く撮られた覚えが無かったりして……。(^_^;)
大会一日目の昼飯は、隣接するショッピングモールのおにぎり。手があいたタイミングを見計らって買い出しに行くむらさきに「一人頭何個をメドに買ってくればいい?」と聞かれて……。
ちょま 「2個ですかね」
竹内 「3個?」
古市 「3個、かなぁ」
神北 「4個!」
藤澤 「4個。」
え? 普通4個だろ? (^_^;)
かくして、各自、一旦脇の方に行ったり席で作業をしながらの戦闘配食。シール屋さんは、基本、会期中闘いっぱなしの軍艦みたいなものだから、毎年こうなっちゃう。「ぜんざい公社」みたいに『昼休み』っちゅう看板を立てる訳にも行かないしね。
ちなみに、我々の陣取ったすぐ横の食の交流室で13時から行われた企画「このノベルズも読め!」のゲスト・トーカーとして、途中数巻に神北が地図挿画をいれさせていただいた《黄金の魔女が住む森》シリーズの麻木未穂さんがお越しになっていて、企画後、ご挨拶をいただいた。
この方の書く、東西分立期のローマ帝国を舞台に史実の陰にひっそりと身を潜める、まだ力を持っていた頃の「今まさに零落しつつある神々」とその策動に何故か絡んでしまう主人公の物語は、ローマやエーラーン(ペルシア)の高官や軍人、そして聖職者たちを巻き込んで、どんどん面白く転がって行き、ついに今月刊の「コンスタンティノポリスの黒き魔女―黄金の魔女が棲む森(下)」(挿絵:倣学)で完結した。この機会に全巻大人買いされることを、強くお奨めする。
この日の夕方、始めての煩悩王が誕生した。いつもの顔ぶれかと思いきや、普通の男性であった。急に煩悩王とか言われて困っておられたみたい。ま、これに懲りずに、シール企画にお付き合い下さい。
着ぐるみのお嬢さん、「なっちゃん」登場。
この娘、たしか昨年のちぃなこんに来ていたお嬢さんかと思って、前に撮った写真を調べてみたら、どうもお顔が違うようだ。しかし、背格好やポーズの取り方が一緒だから、もしかすると、中の人は一緒なのかも知れない。どの角度から見てもちゃんと様になっていて、よく出来たお嬢さんである。
SFファングループ連合会議の事務局長、山本浩之くんが来たので、星雲賞の賞状を預ける。あ、画板ごと渡して、画板帰って来なかったや。
どうしても抜けられない法事があって、この日、是が非でも東京に帰らないといけない安達くんは、夕方……というより、宵の口まで大ぶんぶんの活躍の後、飛行機の時間をにらんで出発。お疲れさまでした。
この日は、天候はいまいちぱっとしないものの、さほど酷い降りになるということも無く、日没を迎えることが出来た。我々のブースからも、岸和田城が美しく見えている。
この日、なんといっても参った依頼者が、「レックウザ」の子である。シール作成申込書に、ペンで自分で線画を描いて来て、「これ、レックウザだから、レックウザの色に塗って!」という子。いや、レックウザの色と云われましてもねぇ。おじさん達、ポケモンやらないから判んないよぉ……。で、「色で指定して」というと、子供なので絵を指差しながら「ここが緑でしょ。で、クチのとこが赤、あ、牙は白ね。で、ここが黄色、ここが緑、ここがやっぱり黄色、ここも緑で……」「口で説明されても覚え切れないから、書いて」といったら、多色ボールペンで色を塗り分け始めた。いや、引き出し線を引っ張りだして、アニメの色指定みたいに「みどり」「あか」「きいろ」って書いてくれたらそれでいいんだけど……と思ったが、後の祭り。そこまで塗られちゃうともう、そのまんまの方が良いんじゃないか?
結局、この子の依頼だけに1時間弱付き合わされた。なかなかの難物なのである。
スキャンして、色ボールペンで塗ってない黄色の部分に色をつけ、背景に星雲の写真を敷きたいというので、黒が溶け込まないように、全体に白い枠を付け……。うーむうむ。なんか、ここまで来ると意地だよ。
意地の限りを尽くして、なんとか仕上げた。きみ、その熱意を持って、15年経ったら編集になりたまい! 今どきのどこの出版社の編集より、君のオーダーはキツかったぞ!!
来年からは、こういうオーダーにもっと簡単に応えられる方策を考えたいなぁ。
この日は、最終枠の始まる21時まで注文解消が続き、一息ついて食事に出れるようになったのは、21時過ぎだった。さすがにお腹がすきました。もうレックウザはしばらく結構です。へろへろになって、で、昨日はマトモに晩飯が食えなかったむらさきや、別行動だった藤澤くんに大阪らしく粉モンを食ってもらおうということで、この日の晩飯も昨夕と同じ「布施風月」。藤澤くんの奥様が「既に食事したから留守番するよ」と云って下さるのに甘えさせて頂きました。ちょっと歩けばたぶんまだ、事前視察の時に見つけた美味しい店「双月」が開いているのだが、朝から降り続く篠突く雨を押して歩く気力は無かった。
まあ、モールに入っているレストランの値段とはいえ、「布施風月」はそこそこ美味しいし、盛りも良い。まあ、大阪方面でそこそこ美味くも盛りが良くもない店なんて、あっちゅう間に潰れそうだけど。
ちなみに神北がよく利用するヨドバシカメラ・マルチメディアAkibaのレストラン界のお好み焼き屋は「鶴橋風月」。ネットをググっても特に関係は出て来ないが、元々三兄弟がそれぞれ布施や鶴橋で「風月」というお好み焼き屋を始めたとか言う話が一件だけ見つかった。とはいえ、「創業60年」とか言われれば、子々孫々会社を受け継いでいたとしても当代同士に取ってはそろそろハトコ同士と云う年回りか。ほぼ、同姓の他人程度の関係かな。店の流儀も、店員が次々に回って来て順繰りに焼き工程を進めて行く「鶴橋風月」のAkiba店と、厨房で作った焼き上がりを客席の鉄板に運び込む「布施風月」の岸和田カンカンベイサイドモール店では、ちょっと違う。「布施風月」の方が、落ち着いた昔ながらの味。「鶴橋風月」の方はどちらかというと、若者向けの派手めという気がする。
お好み焼きを食べていると、10時20分頃に、一緒に食事をしていたメンバーの一人に電話が入った。ダイコン7の実行委員の住野からだ。電話を終えてから要約を聞いたところでは、なんでも、「朝に施設の清掃が入るので、廊下に出ているものの中で、袋に入っているものはゴミとして捨てられます」という連絡だったそうだ。なんで突然、この時間になってそんなコトが伝わってくるのだろう。
我々は既に、パソコンなどの貴重品等を、今は使われていない食の交流室の調理施設側に運び込んでいる。これで、食の交流室のテーブル側に今行われている筈の企画「勇者のお茶会」が10時半に終わるのを待って、施錠確認に立ち会えばOKの予定だった。しかし、パソコンなどの高価な機器は退避したものの、シール用紙・その他用紙類・インク類など資材の多くは、買って来た家電量販店などの袋に入れたまま机脇に置いたりしている。なんで、こんな重要な情報が、全館施錠まで30〜40分という瀬戸際の今頃やって来るんだ? 突然、施設から言い渡された話じゃないだろう? 万が一そんなことを突然云われたのだとしても、委員会レベルで対処して断わってくれよ……。これじゃ、施設と企画をつなぐソケットとして、何の役にも立って無いじゃないか、実行委員会 !!
取り敢えず最後の一品を食べて、まだ食べているもう一つのテーブルの面々を残して、藤澤くんと二人でブースへと走った。
本降りの中、ベイサイドモールと浪切りホールの間を10メートルか15メートル程走り、10時半を回って最後の企画を終えた1階エントランスへ。もう、ほとんど人も居ない。エレベータでDAICON7の法被を着た実行委員と一緒になる。
「どこへ行かれるんですかァ?」
「はぁ、4階の企画ブースに戻ります」
「各企画室の施錠は10時半。11時には全館完全退去という話は聞いとられますかァ?」
「はい、聞いております」
「ほな、なんでこ〜んな時間に戻ってきはったんですかァ?」
「…………」(お前らが、つい今しがたになって、突如として、朝の清掃に関する条件を付け加えたからだろ !? )
「ま〜ったく、困るんですなァ、こないな時間に戻ってこられると……」
「…………」(お前らが、10時半まで機材を置く部屋を施錠出来ないタイムテーブルを組んだ所為だろ?)
あんまりアホらしゅうてアホらしゅうて……、神北も藤澤くんも黙ってしまった。事情もしかとは判らぬ癖に、どこまでオレ演説をぶつつもりだこの50面下げた中年オヤジは? 名前を見てやろうと名札を覗き込んだが、DAICON7の名札は氏名印字が名札の大きさの割に小さいので、上手く見えない。かろうじて「○山○夫」だとかなんとか書いてあるように読めたが、照明の薄暗さと相まってしかとは判らなかった。
まあ、状況の見えてない「うるさ方」さんを相手にしていても、何も始まらない。エレベータが4階についたので、まだ何か言いたげなスタッフ法被オヤジを残し、我々はシール屋ブースへと走った。
すると、シールやブースの脇の食の交流室には、ちょうど「勇者のお茶会」の天野さんたちが撤収するところの様で、警備の武田隊長たちが並んでいる。
こちらは、大慌てで六尺テーブルの上や脇に残っている紙類その他の袋を纏める。
で、ここでも警備スタッフに「10時半に施錠すると通知が……」「今頃何を……」云々とぶつくさ云われる。もう、ここまで来ると話をするのも面倒くさく、さんざん嫌な顔をされながら、黙々と必要物資を食の交流室内に移し、「もう施錠したくてしたくてたまりません」という顔をした警備スタッフ達が施錠するのを確認して退出。
雨はさらに降り続く。
雨の中をタクシーで泉佐野のホテルへ戻る。既に車寄せは閉まっている時間なので、ホールの前に立つ浪切神社の前あたりで、電話で読んだタクシーを待つ。こちら側は車線進行方向が目的地の逆なので、府道29号線を150メートル程北東の北町の交差点まで逆進して、ベイサイドモールを回り込むように結婚式場の方に狭い道を入り、Uターンして府道29号線に復帰、ほぼ海岸線に沿うようにして南西に伸びる府道29号線を7キロ程走り、府道20号線を経由して一本内陸側を並走する府道204号線(紀州街道)に遷り、泉佐野駅北口に至る。全長10キロ程の道のりだが、スタートして400〜500メートル行く内に、雨脚がとんでもなく激しくなって来た。走っている間にもタクシーの車載無線から、「○○付近、道路冠水」などと被害情報が入って来る。岸和田・泉佐野あたりを中心とした20キロ程は、内陸4〜8キロに渡り、やたらと池・沼が広がっている水が溜り易い地帯らしい。基本的にこのあたりが沿岸部のゼロメートル地帯なのは、伊勢湾台風で酷い目にあった四日市北部のゼロメートル地帯に生まれ育ったので、感覚的に一目で理解出来る。ウォーターシューター状態で水溜りをかき分けながら、タクシーは激走。
もうちょっとで話の接ぎ穂としてタクシーの運ちゃんに「大阪の雨って凄いっすねぇ」とか言うところだったよ。いや、これは最近流行りの「爆弾低気圧」とか「ゲリラ豪雨」と言う奴であって、大阪特有の気候でないことはよーく判ってんだけどね、住んだことの無い土地で突然食らうと動転しちゃうよ。
かなりくたびれ果てて部屋に帰りついたものの、しばらくは今夜の閉館間際の大混乱に腹が立って眠れなかった。
当日 2日目。
翌朝も、7時朝食、8時前に出発。9時前に会場到着。この日は電車で移動。浪切神社の前の横断歩道を渡って、祭りの広場から会場内に入る。
ブースに行ってみると、いつの間にか「清掃の方へ、ここは清掃不要です」みたいな貼紙がされていた。じゃ、昨日の「清掃が入り、袋は全て捨てられる」という連絡と、その結果巻き起こった施錠間際の大騒動は何?
ブースには、我々より早く、別の宿に泊まっていたちょまさんと坂野くんが到着していた。
「今、実行委員が来て『昨日はすみませんでした』って云って行きましたよ、何かあったんですか?」と、ちょまさんに聞かされる。
そう、とってもとっても、間抜けで腹立たしいことがあったんだよ……。しかし、多分朝のブリーフィングで「謝って来い」と言われて来たんだろう。こちらの意見と突き合せての状況の検証もせず、何を謝っているのかも判らないまま、頭だけ下げれば良いという謝罪。しかも、話の判る関係者が居ない時間にちょろっと一人二人顔を出して、「謝った」という事実だけのための謝罪をされてもなあ。>○山○夫クン他、昨夜の面々
前にも書いたように、我々シール企画のブースは企画エリアのどん詰まりにあり、この先にはスタッフ及び機材業者・会館業者程度しか通らないコトになっている。当然スタッフは、ブリーフィングを通じて会場内の地理を把握し、仕事に当たっている筈。しかし昨日から山のように訊かれていたのだが、二日目朝のブリーフィングを経た筈のこの日も、ひっきりなしにスタッフTシャツや法被。(法被は高価なので、事前から活動していたメインスタッフの中でも多分有志で作っている。当日スタッフは基本、Tシャツだけをスタッフの目印として渡されている筈。)を着たスタッフから、「ここが4階本部ですか?」とか「4階本部はどこですか?」と聞かれ続けた。
それは、ここから会場をぐるりと回り込んだ、ほぼ反対位置! あんたら実行委員会が決めた4階本部の在り処を、いちいちいちいちいちいちいちいち、活動中の持ち込み企画のブースに聞くな!
また、シール企画より奥は裏動線しかないと言うのに、ありもしない「階段」を求めて奥方向へ通ろうとする一般参加者が引きも切らない。そのたびに、「この先企画はありませんよ」「機材用エレベータしかありません。一般参加者が通れる階段はありません」と声をかけ、注意を促すのも、結局我々。
堪らずにシール企画では、「我々はスタッフではなく、ここはインフォメーションではない。」というプリントアウトと、「この先行き止まり」と赤書した紙を貼り出した。
ま、貼り出した紙を読む人なら、そもそも来ないだろうから、注意書きを貼ったからと云ってそうそう数は減らないのだが……。
スタッフが位置を把握していないことに関しては、ブリーフィングで「話す」んじゃなく、図を「見せる」のが大事。言葉で「どこの施設をどういう風に使うことにします」とか言われても、一度に覚えられることではない上に、頭にまず地図が入っていない人には単なるアホダラ経。どう頑張っても右耳から入って左耳から抜けて行くしかないような伝え方では『理解』して貰えない。百聞は一見に如かず。図示すべきものや箇条書きで身に付けてもらうべき情報は、ブリーフィング用資料としてまとめて刷って、定時ブリーフィングでスタッフ全員に配るべきなのだ。
そもそも、当日にスタッフが持ち歩くために、自分の直属上司(命令や報告の相手)や組織内の担当業務範囲を判り易く書いた組織図、参加者からの質問に答えるための会場図やタイムテーブル、注意事項などをまとめた「業務手帳」「スタッフ心得」的なものを、スタッフ全員に手渡してないのではないか? 会場内の大まかな位置把握すら出来ていないスタッフが、あまりにも多かった。ブリーフィングの仕方をなめて掛かっているのは、スタッフの練度というよりは、スタッフ管理・当日局長と言う管理部署数人の練度の問題だ。これでは末端で右往左往するスタッフが可哀想である。
また、本部を訊いてくるスタッフや通路があると思ってどん詰まりへ歩いて行く参加者など、こうした混乱を助長したのが、会場のどこにも会場図が掲示されていなかったという一点にある。大会プログラム・ブックの中には非常に良く出来た会場図が掲載されていたが、今のSF大会で、当日にスーベニールを開いて、プログラムブック内の会場図まで読み至る参加者が何人居るだろうか?
たとえば T-con 2003 では、企画局長の山本浩之くん指示で、大判インクジェットプリンタを使って大きく打ち出したタイムテーブルや会場図を、いくつも会場要所に掲示した。これと併せて、片面タイムテーブルで片面会場図という『四次元うちわ』をスーベニールとして全員に配布したため、大会の会場内で迷う人を極端に減らすことが出来た。(四次元うちわに関しては、日本SF大会実行委員長としての大先輩でもある野田大元帥から「こいつぁ便利」と、お褒めの言葉を頂戴した。)
この T-con 2003 でも今回の DAICON7 でも、そして間に挟まっているほとんどの大会でも、ずっと当日警備を取り仕切っていた武田くんなどは、割と近いところにこういう例を数多く見ている筈なのだが、上手くいった工夫というものは、漫然と見ていた人にはまったく記憶に残らないのか、すっかりスルーされ、そんなつまらないことが原因で混乱を起こしている。小さな100〜300人規模の地方コンベンション運営を経験することもなく、だから組織としても、組織管理者としてもスキルを積むこと無く、突如として日本大会にチャレンジする実行委員会が増えている昨今、こんな地味だけど非常に高度な判断に基づいている「やって見せても、なお見落とされるコツ」の数々を、後々に如何にフォロー出来るかが重要なのだと思う。
さて、2日目に入って、シール企画はやっとヒートアップして来た。シールを作りたいという参加者が引きも切らず、シール屋さんはずっと盛況なのだが、コトここに至り、緑矢(りきや)クンという陰陽師の格好をした少年が、次々と冊子型台紙を満たしては、煩悩王を重ね始めたのだ。実はこの緑矢クンの着ている衣装を手縫いしたお母さんというのが、今を去ることン年前に、宇宙軍やSFセントラルアートの例会で顔を合わせていた仲間の一人と判ってびっくり。血は受け継がれるなぁ。
最初この子、うちのブースでは女の子だと盛んに言われていたのだが、実は男の子だった。いや、一人だけ「あんなに可愛いのに、女の子のワケないじゃないですか」と、なにかちょっと不思議な理論で真実を見きわめていたメンバーも居たが……。
二日目の11時ぐらいの時点で、既に彼の独走態勢はかたまり、あとは記録を如何に伸ばすかという一点に縛られて来た。
ただ、最後の方になると、彼の冊子には結構あからさまに同じシールが大量に貼られていた。ここいらへんは、初代煩皇が絶対に同じシールを集めないというポリシーで自らを律し、絶対要件として守っていたのと対照的。結局この戦法で、緑矢クンは9冊の冊子型台紙を満たし、2008年の煩皇となった。
一方、初代煩皇さまは、既に中学生の成長期でググンと背も伸びニキビも出て来て、「なかなか誰それ構わずシール頂戴とは云い辛くなりましたよ」と云いつつも、楽々と煩悩王には到達。君、そろそろSEALSに入って、一緒にシール企画をやってみないか?
とはいえ、ずっと煩悩王とかの対処に当たってくれたむらさきの見た所によると、満たされた冊子の数は50〜60冊程度、何冊も満たす子供たちが居るので、実際に煩悩王になった人の数はたぶん十数人〜二十数人と、例年と比べてかなり劣るようだ。ここのところ関東以北の大会が続き、関西だからDAICONだからということで久しぶりに大会に出て来られた、シール企画を全くご存じない参加者が多かったことや、事前情報があまり積極的に流せなかったというこちらの広報の問題も大きい。また、大会企画局が手一杯で、各企画に企画シールをお願いすることが出来なかったなど、複合的な問題が絡み合っているものと思われる。
シール企画に関してのアワードとしては、もちろん数を集める煩皇以外に、デザインを競うシール大賞も行われる。
シール大賞、今年はゲストの中から菊池誠さん、堺三保さん、そしてオープニング・フィルムに登場するおおねナナちゃんとアンドロイドのナナちゃんのお嬢さん方お二人、そしてシール企画からの計5つのシールが選ばれた。
ちなみに、我々が大騒動をしながら煩悩王だ、シール大賞だと走り回っている横では、日本旅行社員の長谷川さんが、来年の T-con 2009 大会申込を受け続けていた。この二日目の昼頃に人数を聞いたところ、既に100人を超えて、シール冊子のシール枠の数と同じ、108を数えたところだと言うことだった。この調子で行けば DAICON7 会期中の申込者は、合わせて130人ぐらいは堅いかなという感じ。
ほぼラストになって、今から作りたいという人がほとんど居なくなった頃、もう完璧に煩悩王レースぶっちぎりトップの緑矢クンが「この絵に色塗ったシールを作って」と申し込んで来た。昨夜のレックーザ程ではないものの、難易度としてはほぼ同等の作業だった。うーむ。子供の書いた絵をもっと簡単にシールにする方法を策定せんと、オレはもう死ぬな……。
ちなみにこの緑矢クンのシール。なぜか完成品がどこにも保存されていない。あまりの疲労困憊に、終了時、セーブし忘れたらしい。うーみゅ……。 ♪泣けて、来ぅる〜〜〜。
この日も昼飯はおにぎり。おやつにたこ焼きを食べつつ、新規作成申し込みを締め切った後、山田(剛也)くんと二人で途中で抜けて、シール大賞の賞品を買ったり、いろいろと大忙し。
徐々に片付け始め、閉会式が始まった頃には、シール大賞の景品引き渡しと、T-con 2009 ブースを1階ホール出口脇に移すため、班を分けて移動開始。最終的に、日本旅行の長谷川さんの手が空いた時を狙って、全体を下に移動。
やがて閉会式が終わると、続々と人が出て来る。この人たちに「来年の大会、申し込みを受け付けております」と大声で呼びかけながら、手に持った案内書の束から一つずつ手渡して行く。出てくる人の並に正対する位置で声をかけているので、「右」や「左」という誘導は混乱を招きそうなので、大きく手を斜めに差し上げて、手のひらで1階受付ブースを指し示しながら「現在こちらで受け付けております」と誘導。20分程で大きな人の波は終わったが、それでも、去り難くホール前や大屋根の下の「祭りの広場」に溜っている人たちに案内書を手渡しながら声をかけ続ける。
1階ロビーに人が溢れる大混乱は、1時間は続かずに去った。並んだ申込を全てさばいてから日本旅行の長谷川さんが「ざっと計算したところ」では、この二日で150人前後の参加申込を得られた模様だった。(概略として領収書の数で確認しているので、1枚の領収書で家族4人を申し込んでいる人などがおられるため、この時点ですぐに人数は出ない。)遂に「次の大会」になった時点でのスタートとしては、まず申し分無い集まり具合ということではなかろうか。ここから順調に参加者数が伸びて頂きたいものだ。
既にシール屋ブースは撤収済み。T9の大会申込ブースも撤収となったところで、東京にお帰りになる日本旅行の長谷川さんを見送り、塩坂号に最後の荷を運び込み、「じゃ、メシを食った後、別れるベェ」ということに。
さすがに3日続けて「布施風月」と言う気にはならなかったので、とりあえず「双月」を目指す。
美味い。やはり「双月」の生地は、何とも言えず美味い。客に焼かせるやり方なので、別に火のタイミングとか、焼き加減とかではない、もっと根源的に、生地や具が美味いのだと思う。特別双月焼という、ふわっふわの玉子で具を包む、流石にこれだけはコツがあるのか焼いて運んで来てくれるメニューも、絶品。
坂野くんと山田(剛也)くんの当日帰宅組は、なんだか集中豪雨で新幹線が熱海付近で立ち往生という、もっと先発した藤澤くんからの情報により、少し余裕を見た時間に出発することにして、途中で離脱。
開会前からちょっとウワサになっていた、かしわとミンチを具にした「カシミン焼き」は、この店のメニューには無く、残念ながら諦めたが、ま、ここでこれだけ美味いものが食えればOK。
ここで車組とも別れ、神北夫婦は南海電車で大阪市内に。元々むらさきだけ信州の実家へ行く用事があったのだが、直前にその予定が無しになったので、地下鉄・阪急と乗り継いでこの日の宿は夫婦揃って十三の東横イン。十三の街はうまそうな食い物やで満たされていたが、もうお好み焼きが喉まで来ていて、何も入りません。
取り敢えず、10時ちょっと前にホテルに入って、女房に先にシャワーを使わせて、ベッドカバーの上にど〜んと沈み込む。女房がシャワーを終えるのを待って後から入ろうと……思って、次に気がついたら翌朝だった。
う〜む。疲れていたんだなぁ。
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コメント
楽屋口から入るなんていう技を教えてもらっていなかったうちの奥さんは会場の前で開くの待ってたそうです。でもって、ほかにもそういうスタッフが居たようです。会場が開くのと(受付担当者が会場に入るのと)受付開始が同時刻なんだから、そりゃ無理でしょう。一事が万事そんな感じだったようです。
まぁ、そういった中で大きな破綻無く会期を終わらせた実行委員会はホントはすごい能力の持ち主なのかもしれません。
投稿: やまだひろし | 2008/09/03 15:19
やまだひろし さま
たしかに、「情報を持っている人が、流す必要性を感じていない」という感じがありましたね。
当日局というシステムのうち、情報の通知徹底の方策を立てる部分(全員の集まる打合せののタイミングや、そこでの情報伝達法。スタッフが活動中に掴んだ細かい情報の吸い上げ法。等々)が、あまり顧みられていないという感じです。そのため、一人一人が自分の判断で動くしか無かったのでしょう。それぞれがバラバラに自分の知り得た情報だけで動いてみえるので、スタッフによって言う事がコロコロ変わったのでしょう。
今後、大会当日に、もっとも気をつけたいところです。
投稿: 神北恵太 | 2008/09/03 17:02
>どの角度から見てもちゃんと様になっていて、
>よく出来たお嬢さんである。
お褒め頂いて光栄です。
また、いつかどこかでお会いしましょう!
投稿: 奈奈子 | 2008/09/04 23:11
奈奈子 さま
たぶん、秋のチィなコンあたりでお会いしそうですが……(^_^;)、是非、来年の T-con 2009 にもお越し下さい。 m/(._.)\m ペコリ
投稿: 神北恵太 | 2008/09/05 00:43