本の無い図書館だぞ
前のエントリから、まるまる3ヶ月ほど間が空いた。
その間、SF大会の準備をして、準備をして、準備をして、7月アタマのSF大会本番を乗り切って、終わってから暫くはもう廃人のように疲れ果て、7月末のローカルリフレッシュコンベンションにはなんとか出かけたものの、後は結構ふらふらして8月も過ごし、9月に入った途端に東名で速度超過をやらかし、ああ、気がついたらもう重陽の、菊の節句だわというわけで、今日からココログを再開する。
さて、今日、是非話しておきたいのは、Engadget日本語版の2009年9月8日のエントリー『ボストンの学校が図書館をデジタル化、書を捨て電子ブックリーダーに移行』のお話し。
ボストンにある学校が図書館にある2万冊以上の所蔵をやめ、電子ブックに完全移行しました。この大胆な決断を下したのはCushing Academyという名前のプレップスクール(私立の受験高校みたいなもの)。校長のJames Tracy氏はかなり急進的な人のようで、ボストングローブ紙に対し「本の前にあった巻物のように、私にとって本は時代遅れの技術である」「これは『華氏 451度』とは違う。学生に読書をやめさせようとしているのではない。今日のトレンドを形作り、技術を最適化したことによる自然な結果なのだ」と答えています。華氏451度って? という方はお父さんにでも聞いてみて下さい。
というわけで従来の図書館にかわり50万ドルをかけて作られたのが「ラーニング・センター」。自然な結果としてインターネットに接続された大型テレビが3台、ノートPC持ち込みにぴったりの個人閲覧室があり、コーヒーショップも併設されています。肝心の電子ブックリーダーはアマゾン製とソニー製が計18台。さらに学生への配布も計画中です。一方、そもそも置き場がもうなかったという書籍は他の学校や図書館などへ寄贈されました。
この元記事内にもあるが、別に、今スタンダードだからと言って、本と言う形態が永遠不滅のものとは言えない。粘土板、竹簡、パピルスや羊皮紙、巻物、そして紙の本へと、様々な材質・形状が試されて来た流れの中で、たまさか「現代は紙を束ねた本の時代」というだけだと認識する方が、情報媒体の進化の中では順当な認識と言えよう。
この紙の本と言う媒体は、火や水に弱く、経年劣化がある割には、一旦絶版したものの複製が楽ではない等、それ以前の媒体と同じようにいろいろと面倒が多いが、ページに綴じることにより、それまでのどの方式よりも、高い集積度を誇った。またある一点で電子書籍に対し抜群に優秀な性能を持っている。それは、記録媒体と表示媒体が一体化しているということだ。さらに言えば、保存にも閲覧にも(照明を別とすれば)電気は要らない。
だから神北は、紙の本というのは、まだかなり長い間生き続けるものと考えている。とはいえ、紙媒体の独占が続くと言っているのではない。
電子署名の公正性が確保されて改竄が(現行の紙媒体のものと較べて)難しくなり、その信頼度が増せば、まずは、あらゆる記録等は検索が容易な電子データとして残すことが増えると思う。
書籍容積の住宅容積に占める比率=書庫/住居容積・レシオ(S/J比)を誇りたい好事家は別として、買った書籍はサーバ上に蓄積して、必要な分だけ手元のブックリーダーやパソコンに呼び出して読むという生活が、今48歳の神北が生きているうちに定常化するといいなぁと思っている。
記事には、「バーチャルになったとき本のなにかが失なわれます。本の匂い、感触、物理性は本当に特別なものです」と話す司書のコメントのことが載っている。また、「紙の書籍をパラパラめくって目的のページを見つけ出す検索性が、ボタンでページを移動する電子書籍には無い」というユーザがいる。「電子書籍には、版面の上下左右の余白、文字間・行間の微妙な調整、細やかなルビ等を奇麗に出すにはまだオハナシにならないほど大雑把」という出版関係者も居る。
しかし、これ等は現状のブックリーダーはともかく、これから本格的に使われだして、後10年経ったブックリーダーがどこまで進化し、高精細化・高速化し、直感的な操作に追従する媒体に育つか、可能性を甘く考えない方が良いと思う。iPhoneの慣性が付いたように指を離してからも減速しながら滑って行くスクロールなど、タッチスクリーンとの組み合せで、現在のマン・マシン・インターフェイスは急速に進化している最中だ。
紙媒体では出来ないような、文言による全文検索や、前閉じた所に自動的に挟まれるオート栞等、様々な機能を活かして行けば、電子書籍が紙媒体より多くの利便性を持つ日も近いだろう。
ま、それは、今と同じか今より進んだ技術文明が、ずっと維持できることを前提とした話なんだけどね。
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