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2010/01/31

ゾンビがくるりと輪を描くぞ

「娘たち! 死の五芒星だ!」
(ミスター・ベネット)

『高慢と偏見とゾンビ』 (ジェイン・オースティン / セス・グレアム=スミス / 安原和見(翻訳)二見書房 二見文庫 ¥1000(¥952+税)

 18世紀、イギリス全土を疫病が覆い尽くしていた。人はそれを、神があの世への門を閉じたため、恩寵を受けられぬ亡者たちがこの世に彷徨い出たものだと噂しあった。墓穴から屍体が甦り、彷徨い歩き、あらゆる動物(といっても、世界最初の産業革命を成し遂げ近代国家へと成長しつつあったこの時代の英国で、一番ありふれていて、鈍重で襲いやすい動物は、人間とそれによって繋がれている家畜たちである)を襲っていたのだ。しかし、屍人たちに襲われ一片の肉も残さずに脳髄まで食い尽くされた哀れな被害者たちは、まだ幸せである。そこまで行かず、屍人の爪や牙に肌や肉を裂かれながらも命からがら生き延びた人には、さらに恐ろしい運命が待っていた。その傷口から入った病は、その人を数ヶ月掛けて生きながら屍人と化し、次第に肉を貪り脳味噌を啜る快楽に強く惹かれるようになり、やがて正気を失ってしまう。そう、ゾンビである。
 しかし、こんな災厄の渦中にあるにも拘らず、英国人は常に英国人であり、彼らの生活は、ゾンビとの数十年続く闘いと言う新しい要素を加えつつも、変らずに続いていた。
 ハートフォードシャーに住まうベネット家は、結婚23年目の父母の間に、ジェイン・エリザベス・メアリ・キャサリン・リディアの5人の未婚の娘たちが居た。この時代のイギリス紳士たちは、家族と所領をゾンビたちから守るために、日本からニンジャを雇い入れたり、子弟をキョートのドージョーで修行させて、武道を身につけさせるのが常だったが、ベネット家ではこの5人の娘たちを日本ではなく中国へと連れて行き、北京の少林寺のドージョーで武道を身につけさせた。
 次女のエリザベスは、そろそろ結婚適齢期の二十歳。美貌でこそ、姉のジェインに譲るものの、考え方も、武道の腕も極めて確かであり、彼女らの父が最も頼りとする戦士であった。ある日、しばらく前にゾンビの群れの襲撃を受けて全滅したままになっていた近所の屋敷ネザフィールド・パークに、新たな住人チャールズ・ビングリーが引っ越して来た。彼を歓迎する舞踏会で、エリザベスはフィツウィリアム・ダーシーという男と出会う。第一印象はお互いに最低であった。

 『高慢と偏見』というのは、言わずと知れたジェイン・オースティンの小説だ。18世紀末1797年にFirst Impressionsという題名で書きあげられ、1813年に現在の題で出版された。つまり、今から200年ほど前の小説である。だから19世紀初頭に蒸気機関を用いた鉄道の研究・開発がはじまる以前のイギリス——徒歩と馬車と船以外に遠くに移動する方法の無かった時代——が描かれている。もう適齢期の終わりぐらいに達している長女から、そろそろ社交界デビューしても良い年になりかけて来た末娘まで5人と、その友人たち、周囲の男たちの恋と結婚を描いた小説である。その人気は200年経った今でも高く、この時代から200年間、この5人娘たちは全世界の読者から愛され続けている。また古くは1940年のものから最近ではキーラ・ナイトレーが主演した2005年のものまで、ハリウッドでも度々映画化されている。
 『高慢と偏見とゾンビ』は、その、すでに著作権が消失するほど古くから読み継がれた小説を元に、この世界にゾンビという要素を持ち込んだ、いわゆる外挿法で語り直したセス・グレアム=スミスの小説である。いや、スミスの文章は2割程度で、残りは殆どオースティンの文章そのままだという話もあるので、はたしてこれをスミスの小説と呼ぶべきなのかは大いに疑問が残る。版元もそう思ったのであろう、この小説、ジェイン・オースティン / セス・グレアム=スミスと、著者連名となっている。なんとも、200年の時を超えた合作というわけだ。1817年に亡くなったジェイン・オースティンもさぞかし驚いておられる事であろう。
 

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2010/01/17

柴野さんありがとうございます。

 柴野拓美さんが亡くなられた。
 年賀状で、年末から肺炎でご入院中と知らされてはいたが、そのまま亡くなられた。1926年生まれ、83歳。

 僕自身、柴野拓美賞を2002年に頂いた身でもあり、他の日本のSFファンダムの皆さんと同じく、ファン活動やコンベンションスタッフなどの活動の中で柴野さんにお世話になったことは、数限り無い。
 最初にお会いしたのはたぶんダイナ★コンを始める前に参加した、宇宙軍東海ベースの伊勢合宿、1981年か82年のこと。この小さなファン・イベントにゲストとしてお越し頂いたのだ。で、名前を覚えて頂いたのは、ずっと下って1988年。MiG-CON、群馬県水上温泉で開かれた日本SF大会の席上、「来年実行委員長を努めます」とご挨拶申し上げてからのことだ。

 アニメ系のライター仕事で一度、池上くんとふたりで柴野さんのインタビューをとらせて頂いたことがある。ガッチャマンの本だったが、タツノコでされた仕事全般についてや、ご自身のお話もいろいろと聴かせて頂いた。軍国少年時代、太平洋戦争中、八高(現金沢大学)時代に、仁科芳雄博士と少しだけ関わりがあり、原子力という新しいエネルギーについて聞かされたこと。初めてタツノコとの付き合いが始まった日に初対面の吉田竜夫さんから「宇宙エースのシルバーリングね、あれって何でしょうねぇ?」と訊かれたお話など、いろいろと聴かせて頂いた。

 21世紀に入り、柴野さんの調子が悪いという話をよく聞くようになり、ここ数年は、目、耳共に衰え、SFファンとしての活動も、なかなかし辛くなったと仰っておられた。精力的に回っておられた日本SF大会や地方大会の参加もかなり稀になっていたが、それでも、今年東京で開催される第四十九回日本SF大会には、是非とも参加したいという旨の年賀状を頂戴したばかりだった。

 柴野さんの遺灰は、ご本人の希望で宇宙葬なのだと聞く。宇宙葬と行っても、現在のものは安定した衛星軌道までは上がらず、早晩再突入して燃え尽きるものだそうだ。星となり常に見守ってくださるのではなく、この地球を巡る風になり、世界各地のSF大会を見て、微笑んでおられることだろう。
 柴野さん、安らかにお眠りください。そして、ありがとうございました。
 私たちは、これからも、SFというジャンルと、あなたが始めた日本SF大会というイベント、そして、日本と世界のSFファンの交流を、ずっと続けて行きたいと思います。

 2010年1月17日 神北恵太 深い感謝と惜別を込めて

 なお、お通夜・お葬式は内々の小さな会場とのお話なので、その他大勢のひとりとしては、遠慮させていただくことにした。
 SF大会が続いて行く限り、柴野さんの精神はいつも我々の近くにある。寂しくはない。

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